LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

7/11 動物サイコパスに捧ぐ&楽園追放

・お題箱19

30.動物見て可愛いって感情ありますか?

思った記憶がないのでわかりませんが、無くはないんじゃないですか?(悪魔の証明
くまモンとかジバニャンみたいな動物のキャラクターは可愛いし好きですよ。

補足48:動物って、現実世界にいる「動物そのもの」と、そこから受け取る「動物のイメージ」が乖離しがちな気がします。僕のように動物好きじゃない人間は前者しか認識しないので何とも思わないけど、動物好きは後者を強く&都合よく認識しているんじゃないのか?っていう。萌えキャラに対するおたくと全く同じ構造だと思うんですけど、僕が勝手に思っているだけのような気もします。

なんか勘違いされているかもしれないんですけど、別に犬猫が嫌いなわけではないです。
積極的に彼らを殺したいようなことは全くないですし、いたらいたで「いるな~」くらいのことしか思いません。

ただ、動物の生存権を認める派閥がよくわかんないですね。人間以外(特に犬猫)の生命に価値があるとみなす一種のイデオロギー?……人間と同等に人間以外を扱おうとする気持ちが理解できません。僕としては犬猫に対しては邪魔になったら殺処分するくらいがフェアな向き合い方だと思うんですけど、それをフェアだと思わない異常者がたくさんいます。
異常者はどこにでもいるので気にしない方がいいのかもしれませんが、やけに数が多いので、納得とはいかないまでも理解する必要は感じています。

補足49:「納得はできないけど理解はできた」っていうフレーズ、前に二式でここさけの感想を書いたときにやたらと言われたんですけど、便利です。


本を読んだりもしたんですけど、「動物の生命を理由なく奪うことは良くない」っていう妄想からスタートしていて意味不明でした。
犬猫なんて放っといても自力で増えるので、再生能力で言えば文房具とか家電より上です。維持するコストが重いとか思ったような機能を持っていないっていうのは家電や犬猫を処分するのに十分な理由だと思うんですが。

一応動物愛護に関して理解できる説明はあって、「動物虐待をする人間はいずれ傷害や殺人を犯す傾向がある」というのがそれです。
動物を無闇に殺すのは社会不適合の兆候としてみなせるので、大変なことになる前に(動物虐待で済んでいるうちに)社会から粛清しておきましょうね~というのは理解できます。未熟な凶暴性が人間を襲う前に手頃な動物を対象にするというのはいかにもありそうな話です。

ただ、これで説明できるのは動物愛護法の存在理由までで、殺処分を廃止しようとする気持ちはやっぱりわかりません(殺処分を行う理由は明らかに凶暴性によるものではないので)。

有力説として、僕は異常者たちが犬猫を殺させまいとする謎の行動は同種間の保護機能が誤って拡張されたバグの一種ではないかと思っています。

大前提として、人間が他の人間に対して生命の価値を認めることは行動原理上の利己的生存レベルでも肯定されます(「どうして人を殺してはいけないの?」という例の質問に対する回答の一種です)。
人間の生存権を認めようっていう話をしているときにじゃあ他の動物はどうなの?っていう話になって、境界例を扱うのは大変だから「皆生きていて皆良い」みたいなことをざっくり言っているうちに本当にそういう妄想が定着してしまったのでは!?っていう気がします。
イスラムで元々は理由があって豚肉食を禁じているうちに、それが形骸化して決まりだけが残ったようなもんですね。いや、知らないですけど。

・楽園追放

61Ofj+DJXLL[1]
俺的にはガルパンと同じような単純娯楽作品だからあんま書くこと無いと思った(書く予定もなかった)んだけど、高田馬場サイゼリヤ

「表面的には電脳vs肉体っていう対立をアンジェラとディンゴに仮託して扱っているのに、電脳側の問題点の本質がメモリの有限性っていう本来の対立と無関係な技術的ボトルネックに集約されているのはアンフェアな話題のすり替えじゃない?」

みたいな話をされて「まあ確かに」と思ったので書く。

もう三年前だから忘れている人向けに設定を説明しておくと、「ディーヴァでは苛烈な階級闘争が行われている」という前提があって、ディンゴが電脳に対して否定的な理由やアンジェラたちエージェントが競い合う理由はそこに集約されている。
しかし、そもそもディーヴァで階級闘争が起こる原因は電脳空間ではメモリを奪い合う必要があるからで、それは何故かというとディーヴァに存在するメモリが有限だから。じゃあ対立の根底を支えているのはメモリの有限性ということになるけど、それは電脳が電脳たる性質とは無関係な設定ではないかという。

有限リソースを奪い合う必要があるのは地球上でも同じはずだ(現代社会を見よ)。
リソースの奪い合いという電脳世界にも肉体世界にも存在しうる闘争が作中ではたまたま電脳で発生していたというだけで、アンジェラが晒されていたのは電脳vs肉体という価値観の対立ではなく局所的なトラブルに過ぎない。更に言えば、ディンゴたち地球勢が階級闘争から解放されていたのはディーヴァが設立されたおかげで地球人口がリソースが余るレベルまで減ったからじゃないのか(アンチディーヴァ勢力としてのディンゴが言う「地球の良さ」は結局はディーヴァの副次効果じゃないか)という話にもなってくる。

後出しになるけどたぶん俺が無意識に考えていたこともそう遠くはなくて、俺は(上のような理由で)楽園追放は対立が汎化しうる構造を持つような作品じゃなくて系固有の限定的な問題を扱った作品だと思ったので、単純娯楽作品という判定を下したんだと思う。

ちなみに、俺が工学部の学徒であることは「有限メモリ設定のアンフェアさ」という問題をはっきりとは見出さなかったこと(=電脳設定と有限メモリを一塊のフィクションとして処理したこと)と無関係ではないと思う。

工学分野ではリソースの有限性(大抵は容量かスピードのどちらかに集約される)はどんな技術にも常に付いて回る問題で、コンセプトに対しては性能と不可分に限界を検討することが要求される。

補足50:ここで言う「理論上の限界」には、

1.技術が未熟であるために発生する、将来的な改善が期待される限界
2.技術とは無関係に存在し、どんなに技術が発展しようと超えられない限界

の二種類の意味がある。
普通に「理論上の限界」と言ったときは1の意味が多い。昔は真空管コンピュータで100+100を計算するのに1時間かけていたのが今は電子技術の発展により1/100000000秒くらいで処理できるようになったのは、技術の発展によって限界が打開された例である。
2の意味での限界は技術の発展では絶対に打開できないもので、例えば光速度に由来する限界。
相対性理論によれば「この世で最も速いのは光」というルールがあり、光速度を超えたスピードで動いたり物を送ったりすることは誰にもできない。光は1秒に30万キロしか進まないので、逆に言えば30万キロ離れた場所に1秒より短い時間で荷物を送るのはどんな技術を使っても絶対に不可能ということになる。
この意味での限界は不可能性しか既定しないが、「無駄な努力」を省くためには有用である(光速度を超えようとするのが不可能だと事前にわかっていればそれを目指す研究をしなくて済む)。熱力学や情報理論はこの限界について議論していることが多い気がする。

メモリの話が出てきたときにそんなに不自然に感じなかった(一般構造としての対立を棄却する代わりに自然なフィクションとして受け入れた)のはデジタル技術とメモリの限界の結び付きへの違和感が小さかったからだろう。
とはいえ、楽園追放で問題になっていたのは必要メモリに対してメモリリソースがどのくらいあるかという定量的な問題なので、常にどこかに存在する理論限界とはまた別の話だ。リアリティを保ちつつメモリの有限性を放棄して電脳の話をすることは可能だし、今回はたまたまメモリが足りませんでした……という「たまたま感」は拭えない。

補足51:補足50で指摘した二種類の限界のうち、2の意味での定性的な限界は常に存在するが、1の意味での定量的な限界が問題になるかどうかは状況依存ということ。
例えば、俺が趣味で作るようなプログラムがメモリを限界まで食うことはまずないので、限界はあまり意識せずに適当にジャブジャブ使っている(C言語とかでメモリを消費するときはメモリが足りるかチェックするコードを書かないといけないことになっているのだが、実際に書くことはあまりない。99.99%足りるし、足りなくても動かないだけなので)。

否定的っぽいことを色々言ったけど、最初に言った通り俺は気にしていないしかなり面白かった(まとめ)。
あと一応女性主人公だけど、アンジェラはビジュアル的にもメンタル的にも別にだった……