LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

5/15 わすれてないです

・お題箱8

13.二次元とポリティカルコレクトネスについて(ひなこのーと

そもそもポリティカルコレクトネスという概念をよく知らないので、それを調べるところからスタートしました。
wikipediaとかニコニコ大百科によると、原義が政治的正しさ、転じて「人間の差異に起因する差別や偏見を防ぐ公平で中立な表現についての取り組み」みたいな感じですかね。狭義のポリティカルコレクトネスはフェアエクスプレッションとかニュートラルフレーズとか呼んだ方がわかりやすくないですか?

僕が差異による差別を深刻に受けたことがないからだと思うんですけど、なんか全体的にどうでもいいですね(元々詳しくないのも興味がなかったからです)。
馬鹿馬鹿しいと言っているわけではないです。ただ、現実問題としてポリティカルコレクトネスが絶対的な規範にはなることはなくて、声の大きさとか政治的なバランスを鑑みて、最も妥当な方向に進んでいくだけですよね。争いに参加する場合はともかく、外野からは極めて原始的な合意形成過程を出るとはあまり思えないので、好きにすればいいんじゃないのという感じです(闘争の結果として表現が変わることに対してもあまり思うところがありません)。

たぶんポリティカルコレクトネスの根底にあるのって、「いかなる人も他人に危害や不快感を及ぼすべきではない」っていう規範意識ですよね(JSミルの危害原則の後半部がルーツ?)。
この倫理規範に従って行動する人間は非常に多く、体感的には最も人気の道徳的公理と言える気がします。
例えば、「なんで○○してはいけないの?」っていう子供の質問に対して、「人の迷惑になるからね」っていう返答をする親は多いですけど、これって「人に迷惑をかけてはいけない」っていう前提が共有されていて初めて成り立つものですよね。そういう意味で、この規範は無前提で大勢の人に共有されていると言えます。

しかし、僕はこの規範を絶対的なものとしては採用していません。わかりやすいように逆向きに言うと、「他人に迷惑をかけることは大した問題ではない」ということです。いつ誰を殺しても倫理的にはあまり気にする必要はないです。
理由は、この規範はあまりにも基準があいまいで、恣意的な運用が許容されてしまうからです。この規範を厳密に守った場合、独特の感性を持つ人や悪意ある主張者(「普通と思われること」を迷惑だと言ってくる人)と衝突した場合に身動きが取れなくなってしまいます。結局どこかで線を引くしかないのですが、他人が迷惑に思っているかどうかは定量的な計測が難しいため、使える機会はほとんどありません。
たしか中学生の頃に絶対規範としてはこれを放棄して「約束を守る」という契約原則に代わりを求めたものの、それにも限界があることがわかったため、現在は暴力寄りの倫理規範(広義の暴力、物理的干渉全般を指す)を採用しています。

とはいえ、僕は他人に迷惑をかけまくって生きているわけでもありません。自分から言うのは非常に恥ずかしいですが、僕は比較的他人に迷惑をかけることは少ない人間のはずです。
これは規範のレベルによるもので、絶対規範と相対規範を区別しているからです。ちなみに今回に限ったことではないですが、僕は勝手に造語を作ることが多くて、これも今適当に作ったので調べても出てきません。

絶対規範というのは、個人の心の中に無前提で君臨し、生きる指針となるような倫理的な規範のことです。一方、相対規範というのは、ざっくり言うと円滑な人間関係のための規範です。
例えば、「嘘を吐かない」という絶対規範のもとに生きている人間がいるとしましょう。彼は同僚と飲みに行くことになって、同僚が懸命に探して予約を取ってくれた店に来ました。しかし、料理がめちゃめちゃまずい。同僚はあまり気にしていないようですが、彼にとってはワースト飲み屋を更新する味だったとします。
でも、いくらマズくても「マジで不味い」とか言うわけないじゃないですか。直接同僚を責めているわけではなくても他人がわざわざ予約してくれた店をボロクソに言うのは心象が悪いですから、褒めはしないにしても、「まあまあだね」くらいが限度です。このとき、「嘘を吐かない」という彼の絶対規範は一時的に破られます(本当に規範を守るなら「マジで不味い」と言わなければならないため)が、それを気に病むこともないでしょう。

要するに、本音と建前ですよ。
メジャーな相対規範は「人の悪口を言わない」とか「知り合いが困っていたら手伝う」とか無数にありますが、それらが絶対規範で支持されないからといってそれをしないのはあまりうまくない生き方です。正統性が理解できなくても従った方がいい規範というのはたくさん存在し、それは時には絶対規範と対立しますが、どちらを優先するかはその都度決めることです。人間、衝突を回避して生きていくためには、(衝突を回避するという目的のためだけに)臨機応変に本音と建前を選択していく必要があるというだけの話です。
別に「皆で仲良くしましょう」という道徳の教科書の話をしているわけではなくて、自分が打算的に心地よく生きていくためにも有効な立ち回り指針です。人の予約した店をボロクソに言う人は孤立して二度と誘われなくなるかもしれませんが、言葉を濁しておけば友人関係は長持ちし、そこから得られる楽しみとか便益もあるでしょう(「心地よい」の定義は人によるので一概には言えませんが)。

なんか、当たり前の話をダラダラ書きすぎてますね。まさかこの僕が人間関係のヒケツみたいな話をさせられるとは。

そう、「人に迷惑をかけてはいけない」という原則の話でした。この原則は相対規範としては非常に強力です。
個人同士のすり合わせレベルでは何が迷惑になるかを検証することは難しくないですし、相対規範には恣意的な運用こそが求められるからです。ただし、絶対規範としては力不足というのは指摘した通りです。
多分、元々は相対規範的な実用アイデアだと思うんですけど、これを絶対的なものだと勘違いした人が他人への攻撃にも使うようになるあたりから意味不明になる気がします。

要するに、長々書いてきて言いたかったのは、「他人に迷惑をかけてはいけない」原則は相対規範的=建前的であるために他人との衝突が予想されない限りは無視してよいという僕のスタンスであって、この発想に立脚している(と思われる、違かったらすいません)ポリティカルコレクトネスに対しても全く同じです。「全体的にどうでもいいね」だけでは短いなと思って書いていたら長くなってしまいました。

質問に戻ると、二次元は基本的にポリティカルコレクトネスを遵守しませんし、むしろ差異から生まれるものを拡張していく逆向きの傾向にありますね(たぶんフィクション全般がそうでしょう)。
まずコンテクストを確立する段階でまさに差異であるところのステレオタイプに従いがちなのが一つと、そこからギャグとかオリジナリティを出していく場合にコンテクストに対する攻撃みたいなことをするのがもう一つで、アンチポリティカルコレクトネス的な様相を帯びやすいのは仕方ないかなと思います(別に二次元が現実へのカウンターカルチャーである必要は全くないんですけど)。
僕としては、述べてきたようにポリティカルコレクトネスを守る必要自体なく、遵守しない方が面白いので、しない方針で行ってほしいと思っています(一応言うと「面白さ」というのは倫理性とは全く別の領域の話です)。

ところで、ひなこのーとが挙げられてるのって、性に対する(イン)コレクトネスと精神障害に対する(イン)コレクトネスのどっちですかね?
どっちだとしても改めて語ることはもう無いんですけど、念のために言っておくと、僕がTwitterで「障碍者を笑いものにするひなこのーと最低だな」とか言っているのは冗談ですよ。

14.コロコロ派とボンボン派どちらでした?

どちらかといえばコロコロ派ですが、漫画雑誌に初めて触れた頃にはもう週刊少年ジャンプを読んでいたのであんまり読んでないです。
ボンボンは僕の周囲では知名度が無くて、そもそも選択肢になかったですね。

・手遊び系グッズ

7G-GD787[1]
手元で弄れるグッズたちです。

アニメを見てるときとかにスマホに手を伸ばしてしまうのがよくないと思って、抑制のために手遊びが出来る道具を色々活用しています。スマホって基本的に時間の無駄なので、意識的に遠ざけないとどんどん人生が無駄になっていくんですよね。娯楽を楽しむためにも努力と才能は必要です。

ちなみに「時間が無駄な行動」と「時間が無駄でない行動」というのは僕の中ではかなりはっきり切り分けられていて、MO・ソシャゲ(ハースストーンなども含む)・ネットサーフィン・Twitter・オンライン対戦等は前者、ゲーム・映画・読書・オフラインゲーム等は後者に属します。基準を語ることは可能ですが、まあ、結局は好みの問題です。

写真のグッズは右から順にハンドスピナー、なんかボタンとかスティックの集合体(ガスキーが言ってたからamazonで買った)、シャカパチ用カードです。
使用頻度が一番高いのはカードですね。MtGをやってない人はあんまり知らないと思うんですけど、一般的にMtGのカードは遊戯王カードに比べてすごく価値が低くて、使い終わったらゴミ箱に捨てられるような存在なので、気兼ねなく折り曲げたり弾いたりできます。

お題箱は敬体、その他は常体で書くというルールを設けていたのですが、お題箱のついでに書いたせいでつい敬体にしてしまいました。直すのも面倒なのでこのまま載せます。

・確率の話

次回に続く(忘れてないアピ)。