LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

5/15 試行の収束っていうのは多分解析的には定義できないよね

・お題箱9

15.オタク2人が地味に遊戯王する漫画の執筆再開予定はありますか?

これのことですね。あんまりないです。

本当に暇だったので、やるのはタダだしとりあえずやってみたんですけど、僕はもともと漫画というか絵を描くこと全般へのスキルも経験も興味もあまりないです(こんな漫画を描き始めてみる程度にはあったんでしょうけど)。
描くからには少しくらいは手本から練習した方がいいかなと思ってたまたま机に転がっていたジョジョリオンを30分くらい模写した記憶がありますが、その程度です(くちびるが厚かったり、睫毛が長かったり、サイコロが◎でコマ割りされていたりするのはそのためです)。
4ページくらいは描いたと思いますが(先攻が異次元の女戦士をセットしてエンドしたあたり)、予想よりも時間と労力が必要で、これを完成させるのは相当なエネルギーを食うぞと思ってやめてしまいました。
面白いか面白くないかで言えば面白かったのですが、他にもブログを書いたりゲームをする方が面白いというか、優先順位がそんなに高くない感じですね。
面白い寄りではあるので、致命的に暇になったら再開するかもしれませんが、今のところ予定はないです。

16.オンライン対戦が時間の無駄・オフゲが無駄でないに分類されるのは、オンゲの場合生活を犠牲にしてリソース割いてるオタクに絶対勝てないからってことですか

それは全く違います。勝敗はあまり問題ではないです。
僕がゲームに求めているのは虚構的な思い出であって、現実的な思い出ではないからです(ちなみにゲームに限ったことではないですが、僕は行動の評価には後に自分の中に残るもの=思い出的なものを重視する傾向があります)。

オンライン対戦で得られるのって、かなり現実に近い思い出じゃないですか。
一定のシステムに従って現実の人間と戦ってその優劣を競うっていう、バスケや野球と同じようなもので、最近はまさにe-sportsと呼ばれていることからもその点はわかりますよね。この種の思い出には個人的な側面とコミュニティ的な側面があると思うので、切り分けて話しましょう。

まず個人的なスポーツの側面というのは何々カップで何位になったとかいう個人が残す業績ですが、僕としてはそれはゲーム以外の領域でやった方が(対内的にも対外的にも)ローコストハイリターンなので、ゲームのオンライン対戦でやるモチベーションが上がりません。頭脳ゲームならある程度までは行けるだろうという自信が無いと言えば嘘になりますが、それでもそれなりに意味のある結果を出すまでにはオールイン勢との戦いがしんどいものになるはずです(そういう意味では、質問内容は局所的に正しいです)。

次にコミュニティ寄りの側面というのは、誰かと一緒にチームを組んで大会に出るとか、SNS上で話題を共有するとか、そういうタイプの魅力です。この種のコミュニティ的な楽しみはわりと大事なものだと考えていて、このためだけにオンライン対戦をプレイすることはありますが、これはゲームやスポーツの本質というよりは娯楽全般の付随物です。たまたま共通項としてゲームを選択したというだけで、例えば雑談や飲み会でも(完全にそうでは無いと思いますが)概ね代替可能です。

ざっくり言うと、これら二つはガチる魅力とカジュアルの魅力みたいな感じですかね。
途中で言った通り、コミュニティ的な側面は(それ自体はゲームではないにせよ)大切だと考えていて、今ハースストーンをプレイしているのもこの理由によりますし、完全な時間の無駄だとは思っていません。
よって完全に時間の無駄だと考えるものを厳密に言えば、コミュニティ的な側面が存在しないもの、例えば誰もやっていないオンライン対戦(CoJPとか)を家に引き籠って一生懸命プレイするようなものです。

家に引き籠って一生懸命プレイしても無駄ではないところのオフゲーについても補足しておくと、冒頭で述べたような僕がゲームに真に求めている虚構的な思い出とは、主観的な人生の拡張のことです。
僕は実際に起こった体験と実際には起こっていない体験をあまり区別していません(前者は現実に行った旅行や現実のイベント、後者は夢で行った旅行やゲーム内のイベントを指します)。

……
なんかこれについてもう少し詳しく書いてみたりしたんですけど、知覚対象と表象を完全に区別しないほどラジカルな立場を取っているわけでもないし、体験というよりは知識なんじゃねーのとか色々疑念も生じてきて、どっかで破綻しそうだなと思って断念してしまいました。
ニュアンスくらいは伝わったでしょうか。

・続/確率について

確率は教育課程では中二の数学で初めて登場し、定義は「ものごとの起こりやすさの指標」、数値については相対度数の収束先として決定される。

補足20:俺は「相対度数」という単語で教育された記憶があまりないのだが、教育出版・大日本図書・東京書籍など、どの教科書会社でも同じ表現が使われていた。ちなみに、これ以降の話についても会社による違いはない。

相対度数の「相対」とは全試行回数に対する当たり回数の相対性を意味し、簡単に言うと、当たり回数を試行回数で割るということだ。サイコロを振って6の目が60回中10回出たときも600回中100回出たときも、相対的な度数は10/60=100/600=1/6とすることで試行回数に寄らない議論が可能になり、そのようにして試行回数を増やしていったとき、相対度数が収束する先の値が確率として定義される。

補足21:定義の段階では実験から確率が決定されていることは重要である。つまり、

「相対度数が1/6のとき確率は1/6」

が正しいのであって、

「確率が1/6のとき相対度数が1/6」

と言っているのではない。
何週か前にも同じような話をしたが、世の中にあるのは実験結果であって確率そのものではない。6の目が60000回中10000回出たという結果を経て初めて確率は確定するわけで、実験によらない確率はあくまでもアナロジーにすぎない。


前回の記事の内容に戻ると、

「くじが当たる確率が0.1のとき、概ね<10回引くと1回当たる>と言える」

は間違っているという話をしたのだった。

補足22:このままではまず確率があって実験結果が従属するように見えるので、教科書的な定義に従って順番を入れ替えると、

「概ね<10回引くと1回当たる>とき、くじが当たる確率が0.1と言える」

となる。
この主張の真偽はかなり微妙なところで、理論上は正しいが、現実的には正しくない。
確かに、くじを引く実験を繰り返して「10回引くと1回当たる」という実験結果がコンスタントに出るようであれば、そのくじの当たる確率は0.1と言っていい。文章としては正しい。
しかし、「10回引くと1回当たる」という結果がコンスタントに出るような実験は現実的に発生しない。前回示してみせたように、10回引いて1回当たるような事象が発生するのは最大でもせいぜい38%しかないため、このやり方ではどの値にもほとんど確定しない。


鍵になるのは収束性だ。
冒頭でサラっと流したが、確率は「試行回数を増やしていったとき、相対度数が収束する先の値」として定義されるのであった。
収束とはブレを前提にした概念で、10回中2回当たりとか100回中11回当たりとか1000回中98回当たりを繰り返しながらゆる~く概ね1/10に近付いていく。このとき「ブレることが許される値」を厳密に言うと、当たり回数だ。
つまり、

「くじが当たる確率が0.1のとき、概ね<10回引くと1回当たる>と言える」

における「1回当たる」の部分をブレていてもよい形に修正してやればよい。すると、次のようになる。

「くじが当たる確率が0.1のとき、概ね<10回引くと概ね1回当たる>と言える」

これが求めていた日本語表現である。

例として、確率0.1のくじを1000回引いたときの当たり回数と確率のグラフを出す。
2017-05-16_135926
100回当たりの確率は僅か4%であるが、75回当たり~125回当たりくらいを「概ね100回当たり」のゾーンとしてやると、これら当たり回数となる確率は100%に近い(多分90%くらい?)。
もちろんそのゾーンから漏れているものもあるが(極めて低い確率では1000回連続で当たることもあるだろう)、今度は一つ目の「概ね」によってレアケースはフォローされる。

・飽き

話題が日を跨いだとき、俺自身がそれに飽きる傾向にあることがわかってきた。
サイゼリヤで話す話題は消費するよりも早いペースで増え続けており、古い話題を持ち越すよりも新しい話題について喋りたくなりやすい(リアルではレスポンスがあるために話題が展開するうちに新規性を帯びていくことは多いが、ブログではそれが言うほど無いというのもある)。
これも一つのトレードオフではあるが、飽きない程度に話題を割愛したり先送りにしていくかもしれない。