LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

12/20 時オカとかガルパンの雑記

・時オカプレイ中

afafa
時オカやってると、幼少期のゲーム体験と成人してからのそれで「隅々までプレイしたという確信」があるかどうかがかなり違うよな~的なことを感じる。

家庭環境にもよるだろうから一概には言えないけど、子供が余らせている時間に対してプレイできるゲームの本数は非常に限られていて、「一度クリアしたら切り上げて次のソフトに行く」みたいな贅沢な遊びができたキッズはなかなかいないわけじゃん。俺は一度クリアしたスーパーマリオをデータを消して何度も何度もプレイしていたし、だいたい皆そんなもんでしょう。
しかしこの年になるとゲームのコストが相対的にかなり安くなってしまって、一つのソフトを複数回クリアするのが難しくなる、それどころか早く終わらせて次にいきたい気持ちすらある。徹底的に遊びつくそうというモチベーションはあるはずもなく、要素を全て触るのは不可能に近い。

そりゃ~今でも攻略サイトを見てトロコンするくらいはできるけど、でもそうやってクリアしたときの「あなたは要素をコンプリートしました!」っていうことを担保してるのはトロフィーのステータスとか攻略サイトみたいな第三者なわけだから、子供のそれとは違うよね。暇人過ぎて20回以上ピーチ姫を救うキッズは「俺はあらゆる要素をコンプリートしたぞ~!」って自分で自分のプレイの完全性を担保できるわけだから。トロコンのコンプリート感は所詮トロコンレベルでしかないという言い方をしてもいいけど。
担保する人が変わると何が違うの?って話になってくると、「否定形を網羅できているかどうか」という違いがある。攻略サイトを見てトロコンした人は、行った空間・時間に隠し要素が「ある」ことは自分の目で確かめて知っているけど、行ってないところに隠し要素が「ない」ことまでは自分では確認できていなくて、見た目のコンプリート率が同じでも実際の確認度合いは全然違うんだよ。当然ながら世界全体は「ない」を含んで成り立っているわけだから、自分の中でゲーム世界を再構成できるかどうかはここにかかってくるところも大きい。

てかそういうノリでブレスオブザワイルドができる今の子供やばいな~と思うけど、今のキッズはスマホ見てコスパ最強攻略してそうだしガノンドロフを20回倒す暇があったらパズドラのランク上げてんのかな~

ガルパン最終章第一話

含ネタバレ追記
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CkwcTN7UYAAEygM[1]
かなり面白かったけど、ただ面白いだけだからあまり言うことがない。
僕は島田愛里寿ちゃんがとても好きなのですが、登場しなかったので悲しかったです。。。


感想はもう終わってよくてあとは全然本質的じゃない話だから真面目に聞かなくていいんだけど(と言うとお前は普段は本質的な話をしていると自分で思っているのか?と言われそうですが)、人が人と交渉するときのやり方って、

1.利益によるモチベート
2.倫理によるモチベート

の概ね二種類がある。

1は何らかの権利を各人の便益に応じてやり取りすること。
例えば、「50万払うので絵を描いてください」「絵を描かないと殴ります」「絵を描いたら今日の夕食を食べていいです」など。それぞれ金・暴力(の回避)・食事という便益を受け取る代わりに絵を提供するという利益の交換を提案しており、別に絵を描く行為そのものに魅力は無いが、交換条件を達成するためにそれを行うことが有り得る。

2は社会通念・約束事・信条・正義・その他精神的な動機付けによって動かされること。
例えば、「昨日私はあなたに絵を贈ったのだから、あなたも私に絵を贈るべきだ」「死んだ祖父と一日一枚絵を描く約束をしたので今日も描く」など。具体的な対価を求めるのではなく、自分の中の規範に突き動かされて絵を描く行動を自発的に開始する。

補足99:規範によってもたらされる快楽も一つの利益であるという考え方をすればこの二つに違いはなくなり、何をもって「具体的な対価」とみなすかということが問題になるが、あまり深入りしなくてもいいか。

補足100:ものすごく雑に言うと、1はコメディっぽく、2はシリアスっぽくなる傾向がある。
メロスがセリヌンティウスとの約束を守るために走るのはシリアスっぽいけど、セリヌンティウスの持ってる期限ギリギリの宝くじを引き換えるために走るのであればコメディっぽい。前者は川の激流とか山賊が行く手を阻みそうだけど、後者はバナナの皮とかエッチな女の人が行く手を阻みそうじゃない?


ではガルパンワールドはどうかというと、俺が見る限り、基本的に利益交換のルールで回っていて倫理が機能していない。
別に今回の治安の悪い船底地区を指して言っているわけではなくて、プロットを構成するキャラクターの行動原理が理念的なものではなく物質的なものにあることが多い。一話から中盤くらいまでの会長がそうだし、正義によるルールが貧弱だから劇場版で約束を反故にすることも許される。もっと細かいもので言えば街の復旧制度とか西住まほの公文書偽造など、世界観レベルで広義の暴力が支配的だという印象を受ける(いくら金銭的な補償があるとはいえ、今まで住んできて色々な思い出もあるだろう個人住居を学生の競技で破壊されて喜ぶのはサイコパスすぎないか?)。

どうしてそういう世界観なのかという理由まで邪推し始めると、別にキャラクターの倫理観がそういうレベルで設定されているというわけではなく、内容のウェイトを戦闘に一点集中させるための方策なんだろうと思う(キャラクターからの要請ではなくてプロットからの要請)。
ここで言う「戦闘」とは単純に物理的な衝突としての外的な戦闘を指していて、対になるのは内的・精神的な試練、すなわちキャラクターが試合に勝利することで達成する心理的目標や、回復する欠損など。ガルパンではこのあたりの盤外事情が積極的にオミットされていて、「○○との約束を守るために勝たなくちゃ」「○○を証明してみせる」みたいなことをモノローグでグダグダ言い始めるキャラがおらず、記録映画的に淡々と作戦と砲弾だけが応酬するようになっている。信条や約束によるルールを弱めることでキャラクターの強度は下がるんだけど代わりに戦闘にノイズが混入しなくなる、キャラクターを犠牲にして純粋な戦車戦のインパクトを強めることに成功している。

補足101:みほが過去の撤退判断で失った自信を回復するサブストーリーは内的な試練なんだけど、逆に言えば主人公周りですらそれくらいしかなく、試合数やキャラ数の割には極めて貧弱。

結局、「ガルパンはキャラクターコンテンツとしては弱い(代わりに物理描写が強い)」みたいなことがダラダラ喋ってきた話の結論になるんだけど、実際にはガルパンキャラクターファンアートは毎日のように流れてくるから少なくとも世間的には全然正しくなくて、じゃあこの話って何だったの!?ってことになる。

まあ、LW的にはガルパンってキャラクター数に比して珍しく好きなキャラが全然いない(島田愛里寿ちゃんもビジュアルが好きなだけだし、「好き度」みたいなゲージ自体があまりない)コンテンツだからその理由として極々ローカルに正しいというのが一つと、ファンアートにかなり勝手なキャラ付けが追加されがちな理由のこじつけくらいにはなるか。
特に言うことがない理由をちゃんと書こうとしたが、あまりろくなことにならなかった。