LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

5/2 美少女動物園も一枚岩ではない

・続/女の子しか出ない作品の話

「女の子しか出ない作品」にも色々タイプがあるという話の続き。
この分類はどちらかというと製作意図よりは受け取り方に寄っているが、あまり厳密にやると大変なので、その辺は適当に掴んでほしい。

A.少女小説の流れを汲む勢力
少女小説、戦前のいわゆるS文化の流れを汲んだ最古参勢力。「寄宿舎で生活を共にする女学生が絆を育んで~」みたいな、マリみてとかのやつ。
これは元々男尊女卑の時代にステレオタイプな人生に嫌気が差した女学生たちがカウンターとして成立させた文化であるために、(当時の)主従的異性愛と様々な面で反対の性質を持つ。いまだに一部の原理主義者が女子同士であろうと性的な接触を嫌い、精神的なものだけを抽出しようとするのは現実の異性愛へのカウンター性を未だに引きずっているのだろう。
まあ一概には言えないとは思うが、この勢力は性描写と男性介入を嫌う傾向がある。そもそもそうしたものへのカウンターとして成立したのだから、カウンターされている側の性質を嫌うのは当たり前のことだ。

歴史的な経緯を俺の勝手なイメージだけで喋ってるわけじゃないよ~ということをアピるために一応参考文献を置いておく。



B.疑似ハーレムを望む勢力
女の子がわちゃわちゃいる中に唯一の男性として自分がいるような形を想像して疑似的にハーレムを作る勢力。
適当なギャルゲーのプレイ画面、共通ルートの日常会話シーンを思い浮かべてほしい。主人公の立ち絵は普通は用意されないので、会話シーンの見た目上は女の子しか出てこない日常系と大差なくなるだろう。そういう主人公視点を勝手に補って楽しむわけだ。
今までこの勢力にフィーチャーしたアニメはあまりなく、「そういう見方も可能」というレベルに留まっていたが、まさにこの視点を推すアニメとして最近あにトレが登場した。これからはVRの発展に伴って、このタイプの作品も増えてくるような気がする。
この勢力は性描写には寛容だが、(作中の他の)男性目線には不寛容である。ハーレム主人公が性描写を受け取ることは大いに推奨されるが、それを他のキャラクターが享受するのはあまり愉快ではない。

C.積極的にキャラの性別を選択した勢力
(主に肉体的な)女性の魅力を積極的に推し進めた結果として、女性しかいない作品に至るケース。閃乱カグラあたりが該当する。女の子がたくさんいて、胸とか尻のセクシーさをアピールしてくるやつ。
アニメでは時代遅れというか基本的にネタ枠として消費されるような気がする(ヴァルキリードライヴとかsin七つの大罪)のだが、何故かゲームはこの路線に進みやすい傾向があり、暇さえあればこれをやろうとする。ゲームはアニメと違って最初に大金を出させないといけないので、インパクトが無ければ企画が通らないのかもしれない(知らんけど)。
この勢力は性描写にも男性目線にも比較的寛容である。グラビアアイドルみたいなもんなので、そんなことにいちいち構っていられない。

D.消極的にキャラの性別を選択した勢力
前に二式で書いた置き換えものと同じ発想のもの。
ベースには男性主人公があるので、元々は男性主人公だったもの、何週か前に書いた武装神姫フレームアームズガールへの主人公の性別の変化を想像してもらえるとわかりやすい。萌えコンテンツで見たいのは萌えキャラだけで、別に主人公の男性キャラが好きなわけではないから、主人公も皆女の子にしちゃってよくない?という。
純粋に萌えキャラそれ自体しか目指さないという意味では萌えコンテンツとしての日常系はここに近い(俺もこの派閥に属する)。
この勢力は性描写にも男性目線にも不寛容である。わざわざ不純物として葬ったはずのものが再出現してしまっては本末転倒だからだ。

E.現実の流れを汲む勢力
森奈津子の官能小説とかがこれに該当する。
現実の同性愛者には興味がないというか、面倒臭いし俺の管轄ではないからあんま話したくないけど、同じく現実に立脚した勢力としてAとの違いを書いておく。
現実発という意味では同じであるが、根本的なモチベーションがAはカウンターである一方、Eはオリジンなので、性に対するスタンスはむしろ逆になる。Aは拒否寄りだが、こちらは許容寄り、というか許容だ。


これら勢力の信条はあまり一致しない。
というのは、「複数を連続的に併せ持つ」タイプの分類ではなく、基本的に対立する(と俺は思っている)。例えば、BとCはわりと親和性が高い一方で、BとD、AとCあたりは和解できない。

特にゲーム作品に顕著なこととして、どれかにフィーチャーした作品を作るのではなく、(恐らく無自覚のうちに)勢力の垣根を越えてしまうために「これは俺が求めていたものではない」となって萎えてしまうことがよくある。明らかにDっぽい設定の途中でCをやり始めたり、続編でBに行くようなことが。


オメガラビリンスは多分D的に最強クラスのキャラデザと設定をしているのに、内容はCに寄ってしまって(一応買ってクリアしたけど)煮え切らなさだけが残った。


モンピースもそうだし、コンパイルハートはそんなんばかりだ。無茶な組み合わせ方をするので歯車がかみ合わず、失敗ドラフトデッキのように戦略が足を引っ張り合ってしまう。
とはいえ両方続編が出ているくらいには売れたらしいので、おかしいのは俺の好みであって、プロのマーケティングによれば組み合わせるのが正着なんだろう。

脱線してしまったが、俺が普段日常系と呼ぶものはDに該当する。
前回と今回で日常系と性描写についてそれぞれの話がようやく終わったので、次回は統合した感じの話をしたい。

・FAGの設定の話


この前自由意志について書いたときの続きで、あんま関係ない設定の話だけど、小説版買ったら書いてあったので一応。

人工自我(AS)というのは、プログラムによる会話応答や簡単な学習能力を持った人工知能ではない。経験を積むことで個々の個性を獲得し、思考する"人格"を確立した量子コンピューターのことだ。

轟雷たちはプログラムではなく本当に人格を持っていることになっているらしい。本文中では地の文で色々考えたりしてるしね。
29fcdff7[1]
(なんか画像を貼らないと更新ツイートの見栄えが悪いので適当に貼った)

補足12:一応理系としては、既存コンピュータと量子コンピュータの計算可能性は等価であり量子コンピュータを導入したところで現在あるプログラムの枠組みを超越した出力が出来るわけではない……と言うべきかもしれないが、それは野暮なツッコミだろう。フィクションの本文がそう言うのなら(作中で致命的な矛盾を生まない限りは)そういうものとして認めるべきだ。


関連して、量子絡みの自由すぎる解釈に対する啓蒙書が最近出版されているのを本屋で見つけたので、図書館に置かれたら借りようと思う(俺は卑しい貧民なので本屋に行って面白そうな本があっても買うことは滅多になく、書名をメモして図書館で予約したり、無ければ別区から取り寄せさせたりする)。