LWのサイゼリヤ

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5/1 ココアちゃんはパンチラができない(嘘)

・ココアちゃんはパンチラができない

というタイトルで書き始める予定だったのだが、したかしていないかで言うと、実は2期の7話でココアちゃんはパンチラしている。
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1期1話ではリゼが下着姿を披露しているし、千夜ちゃんが胸でボタンを破壊してブラチラをする回もどこかにあった。ラビットハウスの皆はパンチラに準じた行為をけっこう色々している。
よって、我々は現実を謙虚に受け止めて、まずは「ごちうさのキャラは下着を露出する」という事実から出発しないといけない。

何故こんな話をしているのかというと、元々「日常系と性描写」というテーマでなんか書こうと思っていて、性描写の代表格としてパンチラを挙げる予定だったのだ。「一般的に日常系では性描写は好まれず、その典型的な例として彼女たちはパンチラができない……」という文脈だったのだが、冷静に調べてみると、日常系でもパンチラは普通にしている。
しかし、だからといって「日常系でも性描写が好まれている」と言うのも短絡的だ。それよりは、性描写自体にも変化が起こっているのではないか(例えばパンチラが性的な文脈を強く含むものではなくなってきているのではないか)と思い立ち、日常系と性描写について考える前に、まずは性描写(主にパンチラ)について考えることにした。

で、そもそも何故パンチラを性描写として特別扱いしていたのかというと、パンチラとは必要な理由のある状況が存在しないイベントだからだ。
例えば、入浴や着替えは生活する上で誰もが行う営みである以上、それらのシーンで下着姿や裸が描写されたからといって性的な含みが付与されるとは限らない。多少はサービス的な意図があったとしても、日常の描写の延長線上という解釈もできる。
一方、生活上でパンチラが必要な状況というのは、性的な意味づけを除いてはまずない。それ故、あえてパンチラを画面に映すというのであれば、それは製作側からの「私はいまパンチラによってシーンに性的な含みを与えようとしています」というメッセージになるわけだ。見えている下着や肌の面積は問題ではなく、パンチラは不要であるが故に性の宣言として機能する。

しかし(?)、冒頭にも書いた通り、実際には萌えコンテンツでもパンチラは珍しくない。
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最近プレイしたPS4『ブルーリフレクション』は上のイラストのような清純系コンセプトの美少女ゲームだが、校内を歩いているときにLスティックをキュキュッと倒してターンすると、スカートが捲れて普通にパンツが見える。
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(アニメやゲームというメディアの違いについては今は省略するが、後で触れるかもしれない)

日常系かどうかは微妙なところだが、ガヴリールドロップアウトでも第1話でガヴリールが2回もパンツを見せている。


5:43と17:17でガヴリールがパンチラする。
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が、パンチラ時間は長くない上に画面内の面積も小さく、それなりに注意して見なければ見逃してしまう。
この「パンチラが一瞬、エフェクトも絡まない」「注意してみなければ気付かない」というのはごちうさのパンチラやブルーリフレクションのパンチラとも共通する特徴であり、日常系かそれに準ずるコンテンツで見るパンチラはだいたいこんな感じのような気がする。

ここから俺が考えたのは、「パンチラは強い意志を持って挿入された、性的な意味を大いに含むイベントである」という前提がもはや『ハレンチ学園』『オーモーレツ』レベルの前時代的な発想ではないかということだ。
パンツが見えた途端に集中線が付いて「ウフーン」みたいなSEが鳴って目撃者が鼻血を噴き出すようなパンチラは時代遅れであり、今は気付く人だけが気付く、わかるやつだけわかればいいと"流す"パンチラが"粋"なのである。
「パンチラは本来不要であるために特別な位置にいる」というような話をしたが、不要というのは脚本上不要という意味であって、物理的に絶対に起こらない現象というわけではない。現実でもあり得る程度のパンチラであれば性的な含みよりもむしろリアリティに寄った喜びが見いだせるということなのかもしれない。

パンチラについての結論としては、パンチラの役割は時代と共に変化しており、いまや性的な宣言としての機能はそこまで大きくないと思われるため、性描写の典型例として持ち出すのは適切ではないということ。

じゃあ性描写には何を想定すればいいのかという話になってくるが、適当に今期エロアニメ枠のsin七つの大罪あたりからサンプルを持ってくる。
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(飛行機内で大した意味もなく服を脱ぎ、)乳首を露出して規制が入るのは間違いなく性描写だろう。これは誰から見ても明らかと思われるので、これ以降に純粋な性描写と言った場合はこんなものを想像してもらえればいい(まだ続きを考えてないから言うかどうかわからないけど)。

さて、ようやく性描写の話が終わって日常系の話に入るのだが、ただ単に「日常系」と言うと定義がフワフワしているので、ここは一旦「主人公含め基本的に女の子しか出ない作品」という明文化可能な形で対象を広げることにする。
女の子しか出ない系作品には歴史的な経緯、消費者の受け取り方によって色々タイプがあり、それに応じて性描写へのスタンスが変わってくると思われるのでとりあえず、5つに分けてみた。

1.少女小説の流れを汲む勢力
2.疑似ハーレムを望む勢力
3.積極的にキャラの性別を選択した勢力
4.消極的にキャラの性別を選択した勢力
5.現実の流れを汲む勢力

続く。

・続き/文章について

「語り手側が持つ文脈が受け手側に伝わらないことはよくある」という問題提起で前回は終わったはずだが、解決策としては、これはもう伝える側が一生懸命に強調するしかないと思う。
というのは、文脈というのは単一情報が全て積み重なった後に初めて確定するため、受け手側が文脈を正確に推測しながら情報を処理していくということは原理的に不可能だからだ。

同じ文章でも前に置かれた文章によって全く違う文脈を持つことはよくあるという話は前回もした(イワヤマトンネル)が、その逆も成り立つ。つまり、後に置かれた文章によっても現在の文章の文脈は変わる。
例えば、「あるラーメン屋がすごく時間をかけてこだわって大変な麺の仕込みをしていた」という話が「そういう丁寧な仕事が人気の秘訣だ」と締めくくられた場合、それは感心な苦労話ということになる。しかし、「こうした手間は麺の成分・味を一切変えないことが科学的に実証された」と締めくくられた場合、仕込みの話は非科学的な時間の無駄について解説したことになる。

このように後に続く文章によっても文脈が変わってくるということは、単一情報を読み進めながら同時に全体の文脈を把握するのは不可能ということを意味する(後に続く文章でいくらでも変わってしまう文脈を、文書の途中で確定することは論理的にできない)。
よって、文脈を把握しながら読んで欲しいと思ったら、最初に書き手側がそれを宣言するしかないのだ。

意外にも、「文脈が行方不明になる」という事態は実は理系分野でも顕著である(論文や参考書ではそれほど起こらないが、講義では頻発する)。
理系分野は

1.文脈が多重化しやすい
2.単一情報が重くなりやすい

という二つの特徴を持つことが理由として挙げられる。

文脈が多重化しやすいというのは、一つの情報が色々なところにこんがらがって影響を持つことがよくあるということだ。例えば、数学では、定理1が定理2を証明するために導かれ、定理2と定理3が定理4を構成し、最終的に定理6と定理9からようやく日本語でそれらしい結論が語られるというような階層構造がよくある。このとき、何が何のサポートで、結局何を言いたいがためにこんな作業をしているのかということがとてもわかりにくい。最悪の場合、講義全てを使っても最低限の文脈すら構成しておらず、意義を理解するためにはもういくつか勉強が必要になるということもある。

また、数学や物理は一つ一つの事柄にいちいち労力を使って証明しようとする(=単一情報が重い)ため、厳密に証明をやろうとするとすぐに全体を追う足が止まってしまう。それが一回しか使わない補足的な定理の証明だったとしたら、各要素の文脈を構成する際のウェイトと実際に払う労力のウェイトが噛み合わなくなり、理解に支障をきたしてくる。

どちらも正しい文脈を知っている教授がそれをわかりやすく教えてくれれば全て終わる話なのだが、そうしてくれないことが非常によくあるわけで、なんだか話が愚痴っぽくなってきたので文脈の話はこの辺で畳む。

この後「伝わらない文章は書き手側に責任がある」という話をするつもりだったが、そちらでも理系事情の話をする予定があり、似た話が続くと飽きるので次回以降のいつかに続く。