LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

3/18

・はじめに

俺は昔から何かあるとすぐにブログを作るのだが、完璧主義な性格のせいでちゃんとした記事を書かねば気が済まなくなり、気軽に更新できなくなって放置してしまう悪い癖がある。

もっと気楽に、サイゼリヤでダベってるときくらいのノリで書くブログが欲しいと思ってブログタイトルをサイゼリヤにした。記事タイトルも、ちゃんと付けてしまうとちゃんとしたトピックを書こうとしてしまうことが目に見えているので、3秒でつける。アメーバブログを選択したのも一番ゴミっぽいからだ。連携するアカウントも、@lw_ruはフォロワーが多すぎて肩肘を張ってしまいそうなので、新しく作った。
最終的にこのブログも放置される可能性もけっこうあるが、まあチャレンジするのはタダなので。

 

・書くという行為のリスクとリターン

そもそもブログを書くという行為、もっと一般には情報発信のリスクとリターンについて。
俺は明らかにリターンよりもリスクの方を高く評価しており、普段の振る舞いでも情報発信についてネガティブ、つまり情報封鎖気味に動いている自覚があるので、まずリスクを書く。
 
具体的に挙げると、
1.情報管理リスク
2.持ち株管理リスク
の二つ。
 
1.情報管理リスクについて
俺にとって、FaceBookでどこどこに行ったとか、何々を読んだとか本名で発信するのは信じがたい。それ以降の人生で嘘を吐くことのリスクが跳ね上がるからだ。
一回「ディズニーランドに行った」とFaceBookに本名で投稿してしまえば、「ディズニーランドに行っていない」と発言したいときに、常に莫大なリスクが伴うようになる。相手がFaceBookのフレンドであればただちに自分は痴呆か嘘吐きということになるし、直接見ていないとしても、別の友達から伝え聞いているかもしれないし、投稿を消したところでキャッシュから情報が出てきてしまえば詰む。嘘を吐けないわけではないが、相手がどこまでの情報をどのくらい把握しているのか管理する責任が伴い、完璧に実行するのは不可能である。
わかりやすいから嘘を例に出したが、情報というのは本質的に持っている側が常に一方的に有利なのだ。
例えば、親が子のTwitterアカウントを監視していたとする(上司と部下でもなんでもいいが、なんか上下関係)。一番ありがちなのが、子が「親が子のTwitterを監視している」ことを知らないというパターンである。つまり、子は親に監視されていることも知らず、日常を垂れ流している場合。これは無防備な情報を一方的に取得できる親が明らかに有利だ。
しかし、逆に子が「親が子のTwitterを監視している」ことを知っており、かつ親が「子が『親が子のTwitterを監視している』ことを知っている」ことを知らなかったとすれば、優劣は逆転する。子は監視されていることを知った上で工作した情報を流すことができ、しかも親はその情報がコントロールの産物であることを知らないのだから、いわば無防備な監視によって工作情報を掴まされるのだ。この場合、流通する情報を操作するイニシアチブは子の側にある。
もちろんこのメタがもう一段回ると、更に優劣は逆転する。この繰り返しだ。いずれにせよ、最終的な情報を知っている方がマウントを取る。
あまり関係ない話をしたような気もするが、要するに情報は秘匿し得ということを言いたかった。
 
2.持ち株管理リスク
さっきは情報を捏造する場合のリスクについて話したが、捏造していない真実の情報を発信する場合にも無視できないリスクがある。
例えば、飲みの席で少しだけ専門的な話題が持ち上がった場を想像してほしい。世間話の範疇ではあるが、やや詳しい知識が無ければ込み入った話ができないような話題だ。例えば、リーマンショックについてとか、量子力学について。
このとき、リーマンショックの話題への参戦度合いについて、3つの立場を考えてみよう。
 
A.発案者。最初にリーマンショックの話題の口火を切る。
B.討論者。Aの出した話題に乗っかり、積極的に議論を行う。
C.傾聴者。リーマンショックにあまり詳しくないので、話を聞きながら相槌を打つ。
 
ある程度有益な話し合いが行われたとして(ちなみに俺はリーマンショックについては「サブプライムローンのやべーやつ」くらいしか知らない)、この会話が終わったときに株を上げるのは誰か。
らくBだ。
議論を提起したAが一番の功労者なのでは?と思うかもしれないが、そうではない。
Aがリーマンショックについて深い知識を持っていることは驚くに値しないからだ。自分から話題を振るくらいなのだから、ある程度興味があって当然だろう。リーマンショックについての論文をいくつも読み込んでいたとしても「ふーん」という程度だ。
対して、Bは偶然振られた話題に対応したという立場の違いがある。これが何を意味するのかというと、Bはリーマンショック近辺の経済的話題について広範な知識を持っている可能性が高いということ。何故なら、Bがリーマンショックについてだけピンポイントで知っていたところに「たまたま」リーマンショックの話題が発生する確率は低く、それよりは、元々経済的な話題に強く、リーマンショックの話題も守備範囲に入っていたという方がよほど有り得そうな話だからだ。
なお、Cの評価が大きく下がることは考えにくい。専門的な話題に付いていけなかったとしてもそれを強く咎める人はいないだろう。人には得手不得手がある。

ここで注目すべきは、「仮にAとBで知識量が同等だった場合でも」、場の人間に与える印象はBの方が有利ということである。偶然性を利用して、知識量は盛ることができるのだ。

このような状況で取るべき戦略は、基本的に乗れる話題が来るまで待ち、乗れるならBになり、乗れないならCになること。自分からAになるのはお勧めできない。何故なら一度Aになってしまうと、その話題についてBになる機会を永久に逸することになるからだ。どうせ知識を吐き出すならAよりもBの立場で吐いた方がいい。

結局のところ、手持ちの知識で自分を大きく見せるには、迂闊に喋らずに機を伺う「待ち」が最も強い。こう書くとしょうもない見栄っ張りの話と思われるかもしれないが、無意識に刷り込まれた印象というのはなかなか侮れない。
ちなみに、会話の流れをコントロールして、狙ってBの立場に収まることができるやつというのも存在する。自ら振りたい話題を他人に振らせ、自分はそれに応対したかのような印象を与えられる人間。
 

こういう垂れ流し型のブログを書くという行為は自らAになりにいくようなものなのだが、リスクを乗り超えて俺がそれに至ったリターンとは何か……

は、疲れたので次の更新で書く。