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24/9/29 バトゥーキと嘘喰いの感想:殴るだけが暴力ではないんだ

バトゥーキ読んだ

完結した『バトゥーキ』を全巻読んだ! かなり面白かった。

俺はもともと同作者の前作『嘘喰い』の大ファンだが、あちらがギャンブル漫画だったのに対して『バトゥーキ』はカポエイラをモチーフとした青春格闘漫画にシフトした。主人公も裏社会ギャンブラーからスポーツ女子高生に変わり、特に彼女を中心とした恋愛や友情が描かれるのは前作からは想像もできなかった新鮮さだ。
とはいえ、前作から引き継いで今回でも濃厚に香るのはあの強烈な暴力の気配である。ギャングの娘である主人公が遺産争いに巻き込まれていく中、暴力要員として現れるのはやはりヤクザやアウトローやギャングの無法者たち。彼らによるえげつない人質や脅しを伴って苛烈な戦闘が間断なく展開していくのが格闘漫画としての『バトゥーキ』の基本線だ。

ただ女子高生の青春劇と反社勢力の暴力抗争が混合された結果、『バトゥーキ』は本格格闘漫画にしてはバトルの温度感がかなりわかりにくくなっていることも否めない。つまり、各戦闘において「これは人が死ぬタイプの戦いなのか」というようなシリアスさがどのレベルに設定されているのかよくわからないのである。
まず、主人公を含む高校生たちの格闘技能は基本的にはいわゆるスポーツの延長上にある。彼(女)らは柔道や空手などの競技選手であるし、主人公が操るカポエイラにしても地域スポーツコミュニティでの文化交流のような穏当で文化的なスポーツとしての側面が繰り返し描かれる。
その一方、反社勢力はスポーツマンシップなど歯牙にもかけない。彼らもスポーツに由来した技能を持つことが多いとはいえ、それは脅しや騙し討ちと同様に行使される純然たる暴力に過ぎない。必要とあらば殴打武器や拳銃を持ち出すことも厭わないし、最終的には殺害で決着することもある。

この二勢力が接触して戦いを繰り広げるとき、サッカー会場でいきなり殺し合いが始まったような、もしくはその逆のような異物感が常に付きまとう。というのも、それぞれがそれぞれの文脈を一向に放棄しないからだ。
例えば、反社との殺し合いがどれだけ激化しようとそれはそれとしてカポエイラ文化紹介パートは頑なに挿入され続けるし、地域コミュニティで出会った一般人がしれっと反社との抗争に参加してきて、その中にはスポーツの指導者や学校教員までもが含まれていたりもする。ギャングと殺し合う局面においてすら、「歌で応援」という一見すると場違いに文化的で牧歌的な要素が欠かせない。
殺し合いへの参加条件にスポーツを捨て去ることは含まれていない。どこまでもその二つが並走するのが『バトゥーキ』の異質さだ。

そうした青春と暴力のアンビバレンスは、一見すると読者を混乱させる瑕疵のように思えないこともない。ここで描かれるスポーツないし戦闘は「反社たちの殺し合い」なのか、それとも「文化的な地元の喧嘩」に過ぎないのか。これは作者の失敗なのだろうか? 『嘘喰い』では一貫して裏社会を描いていた作者が中途半端に中高生の青春要素を取り込んだ結果、バトルの温度感をコントロールすることに失敗したのだろうか?

答えは否、『バトゥーキ』における「表」と「裏」の曖昧さはむしろ作品の根幹を成す重要なテーマであると考えている。
こうしたアンビバレントな暴力の描き方は実は『嘘喰い』から一貫しており、答えを先に言ってしまえば二作で共通するのは「自然に生じる暴力」だ。クリーンな現代社会においてはよく勘違いされているが、暴力とは悪徳の覚悟を決めたときに初めて持ち出される最終手段ではない。様々な利害関係や人間関係の中から連続的に立ち上がってくるものであって、その成立には必ずしも道徳的な判断を経由しないが故に倫理的にフラットな語りも拒絶されない。この暴力に着眼する角度こそ、『嘘喰い』『バトゥーキ』の二作が単純なバトル作品と一線を画したポイントだ。

『嘘喰い』と『バトゥーキ』は自然な暴力の成立をどう提示したのか? この記事ではそんなテーマで二作を掘り下げてみたい。

嘘喰いの話:ギャンブルと暴力について

ある意味で、『嘘喰い』はギャンブル作品のタブーと正面から向き合ったギャンブル漫画だ。

まずフィクションに限ったことでもなく、ギャンブルにおいて当然の前提とされているのは「結果の確実な履行」である。つまり、賽を振って丁か半かの結果が一度出てしまったらそれを覆すことは誰にも許されない。そんなことが許された瞬間にギャンブルという営みは成り立たなくなってしまう。
これをフィクション向けとしてメタに言い換えれば、ギャンブル作品においては「敗者の悪あがきは無駄な努力以上のものであってはならない」という不文律があると言ってもいい。ギャンブルに負けた敗者が取り乱す描写自体はありふれているが、それは試合結果を印象付けるための感情表現に過ぎないのであって、本当にちゃぶ台を返せてしまったら勝者も読者も納得できない。

しかし『嘘喰い』においては「敗者のちゃぶ台返し」こそがあらゆるギャンブルの大前提になっている。
つまり、作中において「ギャンブルに負けた側が暴力によって支払いを踏み倒す」という行為は常に当たり前に考慮されているのだ。ギャンブルとは元より欲望渦巻く寄る辺なきイベントなのだから、勝者が敗者に殺されたところで隙を見せた勝者が悪い。
その前提でギャンブルの支払いまでを確実に行うためには、ギャンブルに勝利する「知力」の他にも敗者から確実な取り立てを行う「暴力」という手札がなければお話にならない。だから暴力の後ろ盾を確保するところまで含めてギャンブラーの実力だ。
そのために作中では「立会人」という職業が登場する。彼らはギャンブラーの求めに応じて公平なギャンブルを提供し、取り立てのために異常な暴力性能を兼ね揃えてもいる。ギャンブラーが立会人と契約することで取り立てを確実に行えるかと思いきや、しかし話はそう簡単ではない。何故なら、「立会人の暴力が確実な取り立てを保証している」ということは逆に言えば「立会人を暴力で排除すれば取り立てを反故にできる」ということでもあるからだ。

いずれにせよ、『嘘喰い』においてギャンブルと暴力は切っても切り離せない。ギャンブルという知的で非暴力的な営みを遂行するためにも、結局のところ暴力という物理介入による後ろ盾が必須になる。
こうした暴力は単なる破壊衝動ではなく利害関係から合目的的に生じるものでもある。故にその目的も必ずしも相手を屈服させることだけではなく、その内にはギャンブルの趨勢や文脈を踏まえた高度な利害判断が常に内包されている。

バトゥーキの話:カポエイラと暴力について

『バトゥーキ』で扱われる「カポエイラ」という格闘技は、その始まりからして暴力でありながら暴力ではなかった。

歴史的には、16世紀頃に黒人奴隷たちが護身術として研鑽した格闘技能がカポエイラの始まりである。
人権を持たない奴隷たちが公に武装する権利はなかったため、彼らは監視者にばれないように踊るふりをして格闘技能を修練した。カポエイラでは楽器や歌との結びつきが強いのも、これは戦闘ではなくダンスであるという体を装うためだ。奴隷制度が廃止された現在においても、特にそうした奇異なる出自を色濃く受け継いでいるのが「ホーダ」という集会である。ホーダとはいわば「連続組み手」のようなもので、参加者が輪になった中で二人ずつカポエイラの組手を行う。輪にいる者たちは声をかけたり演奏したり歌ったりして盛り上がる。
こう聞くといかにも牧歌的な交流のようにも聞こえるが、『バトゥーキ』の巻末に収録されているカポエイリスタたちのコラムによれば、ホーダは必ずしも穏やかなものではないらしい。治安の悪いスラムで質の悪いホーダをすれば、その場で射殺されるという最悪の「交流」が行われたりもするという。つまり、確かにホーダとは交流の場ではあるのだが、そこで展開しうる交流とは何も現代スポーツめいた穏やかな相互理解ばかりではなく、暴力的な敵対をも含む非常に振れ幅の大きなものである。
少し文化解説が長くなった。まとめると、カポエイラは奴隷たちの秘技であった成り立ちからして暴力と非暴力の間を揺蕩っており、現在においてもホーダという剝き出しの応酬が行われる場でそのアンビバレンスが残存している(ちなみにこうした現実でのカポエイラの歴史は『バトゥーキ』作中や巻末でもふんだんに解説されている)。

これを踏まえると、冒頭で提示した『バトゥーキ』のバトルにおける曖昧な温度感はカポエイラの両義性を反映したものとして腑に落ちてくる。
つまり「青春か暴力か」「スポーツか抗争か」「中高生の世界か反社の世界か」といった二項対立自体がそもそもナンセンスなのだ。カポエイラが前提する世界観にそのような線引きは存在しない。
本当の意味での自由を求める剥き出しの交流がカポエイラなのであり、ホーダの中では爽やかなスポーツと暴力沙汰の人殺しはシームレスに行き来できる。故にカポエイリスタたちは反社たちとの殺し合いや人質を賭けた決死の戦いにも身軽に参入してくるし、どんなに苛烈な戦局にも演奏と歌はいつでも現れる。

嘘喰いとバトゥーキの話:暴力の射程について

改めて書けば、『嘘喰い』『バトゥーキ』の二作で一貫していたテーマは「自然に生じる暴力」だ。

暴力とは、『嘘喰い』においては「ギャンブル」に絡む利害関係の中から必然的に要請されて生じるものであり、『バトゥーキ』においては「カポエイラ」という奴隷の秘密格闘技に始まりあらゆる交流が応酬するホーダの中で常に潜在するものだった。それぞれが確固たるモチーフに対する堅牢なロジックの下で独特な暴力を描くことに成功している。

いずれにしても、暴力とは単なる悪意的な最終手段ではないし、暴力に至るまでにあるのも衝動的な愛憎ばかりではない。利害関係の中での目的達成手段だったり、人間関係の中での相互理解の延長として暴力が浮かび上がってくること。ここまであえて「物理的な手段」と言い換えずに「暴力」という強い表現を用いてきたのは、両作が暴力に対して単なる悪辣なイメージに留まらない広い射程を与えたと強調するためでもある。

以上を踏まえれば、バトルシーンから汲み取れる意味も変わってくる。暴力によって真に描かれているのは、例えば『嘘喰い』では利害に対する誠実さであったり、『バトゥーキ』では相互理解を求める欲求だったりする。バトルという普遍的な人気モチーフを用いながらもその生起に対して独特の意味付けを与えることによって、暴力概念及び描写の拡張に成功した傑作としてこの二作を評価したい。