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12/27 バーチューバー生放送によって失われたもの

・バーチューバークリスマス生放送ラッシュ

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雨後の筍のように現れたバーチューバーたちがリアルとバーチャルの境で本格的にタップダンスを始めてから一週間ほど経った(実はまだ一週間くらいしか経っていない)。

彼女らがリアルとバーチャルの狭間のどこに定位するかを考えるにあたり、肉体/精神や主体/客体のように細かく分解した要素であれば位置を見定めることは大して難しくない。そうやって各要素の値を定めたのちにそれらがどう結合していくのかが問題であるはずだが、その第一段階としてまずは要素の有様から見極めたい。
以下、「バーチャル」はバーチューバーの「ガワ」、「リアル」はバーチューバ―の「中身」と対応する語として使うことに注意。ガワはキャラクターとしてのバーチューバ―=バーチャル存在、中身はバーチューバーに声をあてて動かしている女性=リアル存在を指す。

まずは物理的な見た目としての「モデル」について。
そのままでは単位が大きすぎるので、モデルをメッシュ・テクスチャ・ボーンに分解しよう。剛体としてのモデルを形作るポリゴンの集合をメッシュ、メッシュの表面に貼り付ける絵図をテクスチャ、モデルを動作させるために内側に通す芯をボーンと呼ぶ。この三つはモデルの構成要素であり、デジタルデータとしても分離可能だ。

このとき、メッシュとテクスチャがバーチャル、ボーンがリアルに属する。
モデルにおいて属するというのは「要素を制御しているのが誰か」というほどの意味であり、それぞれを具体的に想像すればすぐにわかる。「キズナアイとしての形状=メッシュ」及び「キズナアイとしての図像=テクスチャ」を定めているのはキャラクターとしてのキズナアイだが、「ボーンの動作=キャラとしての一挙一動」を制御しているのは中身の女性である(Kinectのようなモーションキャプチャーを使っていると思われるため)。
この違いは、クリスマス生放送でミライアカリが自らのモデルデータをMMDとして公開したことを経由しても理解できる。バーチャルなデータとして譲渡できるのはメッシュとテクスチャに限られており、ボーンの動きは不足しているのだ。ミライアカリのモデルを入手したからといって、ただちに彼女がYoutubeでそうしているように元気に動いてくれるわけではない。

補足102:「ボーン」という単語をやや恣意的に解釈していることに注意。
ボーンはメッシュやテクスチャと違って動作及びそれに伴う時間継起性を持つために多義的で、「モデルに組み込まれたデータとしてのボーン」「物理的な挙動としてのボーン」「ボーンの動作意図」の三つのレベルに分割できる。今回はモデルの要素を切り分ける指針として「動画で目に見えるもの」を採用したため、二番目の物理挙動というレベルで解釈した。
一番目の意味で内部的なデータとしてのボーンはバーチャル側に属する(関節の駆動範囲はキャラクターのステータスの範疇である)が、見た目としては隠蔽されている。三番目の意味ではガワと中身の意図が混在するがこれは見た目とは関係がなく、行為主体の思考として次に扱おう。
まあ、モデルについての分類はとりあえず言っておいただけでここで終わるので(あとで参照しないので)、別に好きな基準で好きなように考えてくれていい。


外見の話が終わったので、次に内面について検討する。
まずはバーチューバーの行動意図、つまり、ゲーム実況やお絵描き動画でゲームを操作したりピカチュウのイラストを描くにあたってその挙動を定めているのは果たしてガワか中身かということについて。これはどちらに確定するわけでもなく、ガワと中身の間をアナログに揺れ動いていると考えるのが妥当だろう。ある程度の流れは台本に沿ってはいるだろうが、かといってリアクションや操作の一つ一つまで完璧に制御されているわけでもなく、キャラクターをなるべく守ろうとしつつも自己判断で動いている。
このバランスは生放送では大きく中身の方に揺れる。単に生放送ではカット・編集ができないので中身の裁量が大きくなり、彼女たちの言動にも明確に変化が見られる。特に自己言及に関してそれが顕著であるという話をまた後でするが、いずれにしてもこのバランスは程度問題なので、行動の意図はガワと中身のどちらを起源にしているかについて二重の解釈が可能だ。

バーチューバ―自身の意図から離れて、外部からの扱われ方はどうだろう。
バーチューバーを考える上で声優は手頃な比較対象になる。中身の女性がキャラクターを被って喋っているという点で声優ラジオとバーチューバー生放送はかなり似ているからだ。しかし、声優ラジオとバーチューバーの大きな違いの一つとして、「エロ同人を描けるかどうか」がある。社会通念として実在かつ存命の人間でエロ同人を描くことは許容されておらず、声優のエロ同人は少なくとも表には出てくることはない。一方、輝夜月やミライアカリのエロ同人はTwitterを開いただけでもファンアートとしてそれなりの数を見ることができ、「これはキャラのイラストだから(中身の女性に触れているわけではないから)」という言い訳によって正当化される。
とはいえ、全てがガワとして扱われるわけでもない。生放送で発生した投げ銭行為や彼氏についての言明は中身に対するものとみるのが妥当だろう。その扱いはアイドルと大差がなく、囲うオタクと囲われる女というよくある構図がキャラクターを飛び越えて構築される。それが許される以上、表面的には「キャラのイラストだから」という言い訳で弁護されているエロ同人を、実際には中身を対象としたものとして生成・消費することもできる。
結局、扱いに関してもやはりガワと中身のどちらを対象にしているかについて二重の解釈が可能だ。

以上、「行動の意図」「扱われ方」として導入した二つの要素は、もう少し射程を広く取れば、主語か目的語かというほどの意味で「行為主体としてのバーチューバー」と「行為対象としてのバーチューバー」として整理できる。結局のところ、この二つはリアルとバーチャルのどちらに確定するわけでもなく、常に二重の解釈ができるのであった。

ある程度は要素への分解が済んだので、要素をまとめる方向に少し進んでみよう。
事態が錯綜してくるのは、行為主体と行為対象が見かけ上は一致する自己言及行為においてである。例えばミライアカリがミライアカリ自身に言及する場合、主体/対象のそれぞれに対してリアル/バーチャルのそれぞれが対応できるため、

1.「キャラクターとしてのミライアカリ」による「キャラクターとしてのミライアカリ」への言及
2.「キャラクターとしてのミライアカリ」による「ミライアカリのアクター」への言及
3.「ミライアカリのアクター」による「キャラクターとしてのミライアカリ」への言及
4.「ミライアカリのアクター」による「ミライアカリのアクター」への言及

という2×2=4通りの解釈が可能になる。

補足103:声当て、モーションキャプチャー、facerig等を同時にこなす人(しかし顔は出していない)をぴたりと指す日本語はまだ無いので、とりあえず「アクター」と書いてみた。

このうち見て取れるものは1と3と4で、2は今のところ確認できていないが原理的に不可能ではない。
どれも簡単なので具体例は省略するが、生放送で4が顕在化したこと、生放送というフィールドではミライアカリが完全にリアルとしか解釈できない喋りをしてしまったことは深刻だ。

「……下ネタがいける子とかさ言うけど、あれはあくまでスタッフさんには言わされてなくてアカリ自身で言ってるので……」
(18:56~)

これはミライアカリがミライアカリを評する自己言及であり、発話主体は鍵括弧の外にいる人、言及対象は発言内にある「アカリ自身」である。
発話主体が「キャラクターとしてのミライアカリ」ではなく「ミライアカリのアクター」であることは明らかだ。発話者の認識には「スタッフ」や「下ネタを言わされる可能性」が存在しているが、これはキャラクターとしてのミライアカリには有り得ない(キャラクターであるミライアカリには他の知り合いはエイレーンくらいしかいないし、全て自発的に喋っているので物事を言わされる可能性自体がない)。言及対象の「アカリ自身」もこうした認識に沿ったものでなければならないので、「ミライアカリのアクター」で間違いない。
リアルがリアルについてうっかり喋ってしまったことによって、生放送に限ってはミライアカリは行為のレベルでは一瞬バーチャルから降りた。キズナアイはここまで致命的に口を滑らせることはなかったが、しかし邪推を含めれば全体としてバーチューバーが生放送をすることで声優ラジオの声優的な存在に近付いているという感覚は強い。せっかく生まれたバーチューバーという新概念が新規性を消す方向に進もうとしているのは惜しく、個人的にはバーチャルを温存する方向に動いて欲しいとは思う。