LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

10/15 オタクを語るなオタクたち

・お題箱25

36.オタクですか?
いつからオタクですか?
子供の頃はどんなオタクでしたか?

オタクの定義みたいな話をするなら前にも二式でも言ったように「現実に適合しなかった人」くらいが一番しっくり来るんですけど、「いつから」という話は結構難しいですね。
難しいというのは、個人の経験を超えた時代の流れとして新人類世代あたり(1960年前後生)から社会に適合することを拒否した人々は一定数いて、世代的な解釈としては生まれた瞬間からオタクだったという回答が可能だからです。

世代の話を持ち出す以上は一応どこにでも書いてある社会の話をすると、人生の基盤としての大きな物語(マクロには人類は知性によってどこまでも発展できるという理性主義、ミクロには日本の終身雇用体制や家族制度など……)が崩壊した以降の世界で、アイデンティティ形成が不完全なまま現実系に物語を発見できなかった人間を広義のオタクと呼ぼう的な話です(崩壊どころかそれが機能していた世界観を知らない世代が大きな物語を説明として持ち出すのは流石にどうなんだろうという感じはありますが)。
当然ながら僕は当時生きていなかったのでそのときの本を読んで妄想を膨らませるしか無いんですけど、オウム的なサブカルチャーが若者を吸収した経緯は感覚レベルで凄くよくわかりますし、深いところに流れる感覚はそう変わっていないような気がします。

というか、もう少し狭いオタクワールドに限って言えば、前の世代から引き継いできているオタク的世界観が当たり前になりすぎている節があります。普段は意識にのぼることすらない常識が古い世代のオタクの本でわざわざ指摘されていて、「これって自明じゃなかったのか……」と驚くことはたまにあります。

その代表的なものとして、単一の現実世界を生きる気力を無くした世代から発生した「世界の複数化」という概念があるんですけど、これって僕らの世代には当たり前すぎて逆にピンと来ないんですよね。
例えば、ハルヒは現実を土台にして世界を複数化していたことが(斬新とは言わないまでも)特徴的であるなんて古い世代は言うんですけど、僕らからしたらそんなん当たり前じゃないですか? 日常の背後に何らかの魔法的超常的な世界が重なり合っていて、それらが相互に影響を受けながら回っているっていうモデルの作品はいくらでもあります。シャナで言う紅世、BLEACHで言う尸魂界、ヴァンガードで言うクレイなど(マトリックスの感想でも同じようなことを書きました)。
他にも、大塚英志が提唱したまんが・アニメ的リアリズムって(現実をありのままに写生する自然主義的リアリズムのように)どこかに存在している虚構世界をありのままに写生するというものなんですけど、今更そんなことは言われるまでもないでしょう。先程も言った通り、我々は現実世界以外の世界系を仮定するという行為が普通に行える世代であり、のんのんびよりはどこかの農村で起こっている出来事をそのまま漫画化したものという感覚は常識としてあります。

そういう意味で、世代レベルでオタク化は進行しているから、「いつからオタクですか」という(恐らく僕の個人的な人生について聞いているであろう)質問に答えるには個人と環境=世代を切り分けるのが難しいところがあります。
でも、そういう広義のオタクが支配的になった世界でもとりわけコンテンツに執着するオタクっていうのは明らかにいるわけですから、まあ、それがいわゆるオタクなんでしょうね。定性的には時代の流れの中にいるとしても、定量的に執着度合いがヤバいという意味で。

世代の話の流れに乗せて語ろうというわけではないですけど、ついでなので喋ると、スマートフォン普及以降くらいからオタクの感じが急速に変わっているということは感じます。基本的に虚構に対して羽を広げていたはずのオタクカルチャーが現実と融合する気配を見せているというか、現実への出戻り現象みたいなものが起きています。

少しキーワードを挙げるとすれば、仮想現実とネットワークあたりです。
仮想現実っていわば究極の虚構のはずなんですけど、いざその技術が実用レベルまで発展してきたときに何故か現実に出戻る路線っていうのが浮上しました。具体的には、主にARのことです。

http://www.moguravr.com/cedec2017-session-2/
http://www.4gamer.net/games/358/G035850/20170306008/index_2.html

このソードアートオンライン劇場版の記事にかなりいいことが書いてあります。
SAO劇場版は見ていないので知らないですが(本編も見たことがないですが)、記事によれば、SAOは元々はVR世界の話だったのが、劇場版ではARになったらしいですね。それについて対談をする中で、原田さんがARに拒否感を示して、川原さんも「キリトは最初ARに乗り気じゃなかった」みたいなことを言います。ARはVRと違って基本が現実系だから、現実をエンターテイメントで彩るものであってゲーマーが好きなVRとは全く違うということを言っていて、僕も概ね同意できます。

補足71:原田さんはサマーレッスンを開発した、ゲーム業界ではVR第一人者的な人です。前に東大に講演しにきたことがあって、そのとき俺がVR空間に飲み込まれることについてちょっと質問したら洗脳の話を返してきて「なかなかやるな」と思いました。

ただ、現象としてはそれで正しいとは思うんですが、サブカルチャーとARの本質的な違いがまだよくわかっていません。例えば、オウム真理教も現実に出現した虚構の城という意味ではVRとは違って現実との接点を大いに持っているAR寄りのものだと思うんですけど、だからこそ魅力的に映ったという節もなんとなく感じます。オウム真理教は良くてARがダメなのは何故なんでしょう。この辺、生まれてないのが響いてきてなかなかわかりませんね。

もう一つはネットワークです。
技術の発展によってゲームはネットワークと結び付くのが普通になりました。スタンドアローンだったファミコンや64と違って、SwitchやPS4はデフォルトでネット接続機能を持っています。ネット機能の挿入はハードスペックのレベルの話なので時代がはっきりしていて、任天堂系ではGCwiiの間SONY系ではPS2PSPですね。ただネットに繋ぐだけなら構わないのですが、やや迷惑なことにこれをゲーマーのコミュニティに繋げようという動きもあり、ニーアオートマタでメタ的に入ってきたネットを介したソーシャル要素(スタッフロールのアレ)が不愉快だったのは二式に書いた通りです。

あと、ネットワークという点ではソシャゲもそうですね。
今までソシャゲっていうのは時間軸を中心に「うまくやっている感」を悪用したもの、作業の快感を搾取するツールだという理解でいたんですけど、最近は原義の?ソーシャル部分がもっと強くなっている感じがします。今マックでハンバーガーを3つ食べている層ってオタクではなくてAR寄りというか、現実のツールとしてソシャゲを使っている層ですよね。

DMFu9lUV4AI0Gm0[1]
(最近アズールレーンをDLしたんですが、フレンド0人でもデフォルトで同サーバープレイヤーのガチャ情報が出てくるので驚きました(右下のダイアログ))

なんか選民思想みたいな言い方になるんですけど、ソシャゲーマーは新人類以降の流れを汲んだオタクとは別の潮流を持った集団であるのかもしれないという印象があります。基本的にエアプなのでよくわからないですけどね。

補足72:斎藤環みたいにコミュニティとオタクは切り離せないっていう立場を取る人も一定数いて、彼は萌えの定義にすら(内的な昂りではなく)外部へのアピールを組み込もうとするんですが、全く同意できません。

結局、僕がARやソシャゲのように「なんかオタクっぽい顔で流行ってるけどこれは別にいいな……」って思うものは大体現実への出戻り現象を起こしていて、ここ5年くらいでそういうものが急激に増えています。ちゃんと調べたわけじゃありませんが、この温度差っていうのはジェネレーションのギャップではなさそうで、どうにもわからないままです。
まあでもせっかく世代の話をしてきたのでそれっぽい言い方をすると、今僕たちは世代の狭間にいて、僕が旧世代寄り、皆さんが新世代寄りにいるとかまとめると話が綺麗です。冷静に思い出してみれば、知り合いにそこまでソシャゲーマーがいるわけではないので、声がデカいやつが大きく見えているだけなのかもしれません。KSUで言うとぼへまるは明らかに旧世代急進派、しげすぎちゃんが言う「オールドタイプ」も恐らく旧世代に吸収できます。


ところでオタク自体を対象としたオタク語りってどうしても社会の話になるからあんまやりたくないなと思って今まで意識的に抑えてたところがあるんですけど、せっかく聞かれたしここはサイゼリヤなので……