LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

9/9 萌えキャにイカれてソシャゲを始める雑魚

・千年戦争アイギス


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Twitterで流れてきたナナリーというキャラの画像↑が神だったのでちょっとプレイしてみた。
反空さんに「腋が出ているキャラは恥ずかしがってるのがいいんじゃないの?」みたいなこと言われたけど、それは完全にNOで、LW的にはむしろ恥ずかしがってない方がいい。二次元の萌えキャラが腋を出しているのは神聖さの担保なので、「別に普通です」と堂々としていればいい。
神聖さという意味では、このイラストがそれを持っているのは構図の寄与も大きい。傘型で安定したシンメトリーという図形のバランスを持ち、明らかに他の立ち絵よりも幾何学的な調和がとれている。
DI226qEVAAEJKgw[1]
(↑他の立ち絵の例 これも75点くらいあるけど、冒頭のやつは1000点)

冒頭のナナリーの立ち絵が神がかっている理由はイデア界から出てきたような神聖さにあって、それを担保するという役割を腋と構図が担っているということ。
今まで美術とかで構図の話を聞いても「うまぶりやん」くらいにしか思わなかったけど、腋みたいなものか!と考えると重要性が理解できる。そういうことだったのか。萌えと幾何学、実はそう遠くない話なのかもしれない。

ゲームはとりあえずナナリーを入手するところまでやったけど、早くも飽き始めているし、のめり込むことはなさそう(ナナリーは初心者救済の引き換えチケットで入手した。もしそれでナナリーが入手できなかったらヤバかった可能性もあるが、まあ課金はしなかっただろう)。
内容はタワーディフェンスゲームで、ソシャゲにしてはかなり頑張っている方だけど、ハースストーンみたいにゲームやりたさで遊ぶ動機になるほどのクオリティではない(まあでも、アイギスより面白くないコンシューマーゲームは無限にある)。てか、これは明らかにPCでやった方がいい。撤退とかスキル入力がコンマ一秒を争うのに、スマホだとうまくタッチできなくて死ぬことが多い。

さて、俺はまだそれを肌で感じるほどやり込んではいないけど、アイギスの運営はガチャで出てくるユニットの差別化に腐心している(らしい)というところは非常に評価できる。
というのは、アイギスでは高レアリティユニットは後続ユニットの下位互換にならずに使い続けられるように、定期的にアップデートで救済されたり、オンリーワンのスキルを持つように配慮されたりするらしい。

評価されるべきというのは、単にユーザーに優しい運営であるということではなくて、ガチャの真のポテンシャルを引き出す可能性があるスタンスだということ。

俺は基本的に「コアゲーマーはソシャゲになびかない」みたいなスタンスを取っているし、ガチャに対しても人の心の隙間を利用した単なる集金システムでありこんなもののために真のゲームが間接的に被害を食らっているのは許せないくらいのことは思っているけど、それでも「ランダム性によって豊かなユーザー体験をもたらす可能性がある」というガチャが持つポテンシャルの存在を認識している。

ガチャの排出は(集金のために)確率の配分に対してユニットが多すぎるので、友人同士で全く同じ引き方をするということはまず有り得ない。ある人が最初に引いた最高レアリティがナナリーなら別の人はシビラだし、他の人はイングリッドというように一致しないのが普通だ。引いたユニットの組み合わせパターンともなると、それはほぼ無限にあると言っていい。
それぞれが引いたユニットの組み合わせの数だけユーザー体験があるのでプレイ体験はオンリーワンの豊かなものになるというのがざっくりした趣旨なのだが、ここでいう「豊かさ」とはゲーム内なのか現実の延長なのかという話はしておかないといけない。

言うまでもなく、現実の人生で各人が所属する環境や生まれ持つ才能が千差万別であるというのは当たり前のことで、どう生きていても人生が一致することはまず有り得ないわけだが、「ガチャの引き」をこれと同じ次元で捉えてほしくない(別に捉えてもいいんだけど、それはゲームではなく現実なので、俺の興味の範疇外になる)。Twitterにガチャのスクショを貼って「俺は○○が出た」「俺は△△が出た」と言い合っているのは現実次元の話で、別にゲームの話ではない。ゲームをネタにして人生の分岐を味わっているだけで、その交流はゲームではない。

じゃあ何が「ガチャによってもたらされるまさにゲームの豊かさ」なのかというと、あくまでもゲーム内においてガチャで引いたユニットによってゲームストーリー体験が分岐するということ。

補足58:「ゲームストーリー体験が分岐する」というのを厳密に言えば、「本当にゲーム内のストーリーが変更されて分岐すること」と「ゲーム内のストーリー自体が変更されるわけではないがそこからユーザーが汲み取って補足する内容が分岐すること」の二つがある。これはかなり微妙なところで、本来のゲームとしては前者であってほしいような気がするが、かといって本当に前者になるとそれはガチャの功績ではなくなる。
例えば、引いたユニットの組み合わせによってセリフや展開が逐一変わっていくという気の遠くなるような実装をしているソシャゲが仮にあったとする(ちなみに、簡易的ではあるがパワプロのアプリがやっていることはそれに近い)。が、実際にガチャを引いて人によって違う展開を楽しんでいたとしても、それは単にシステム的に組み込まれた既成のルート分岐がガチャによって分売されたというだけで、ランダム性の寄与ではない。ガチャなんて引かせなくても、実装したルートを全てバラ売りすればいい。
よって、ガチャの話ではユーザーが補足する内容の分岐の方に力点が置かれる。


そのためには引いたユニットが主導して積極的にユーザーのゲーム体験を作り出していくような仕掛けが必要になる。そういう意味で、ユニットの差別化をしつつ使い続けられるように配慮するというアイギス運営の姿勢は個別化した体験を創出することに大きく寄与する。

これに関しては、この記事がすごくいいことを言っている。
この記事で扱っているのはガチャではなくブラック交換チケットの話だが(アイギスではガチャで出る最高レアリティが「ブラック」で、ユーザーはゲーム開始時に一人につき一つだけ任意のブラックユニットを入手できる)、言わんとしているのはまさにこのことだ。
ガチャで最初に引く最高レアリティユニットはそのゲームの主人公の選択に等しく、ナナリーを引けばそれはゲームがナナリー編になることを意味する。
これがロマサガの主人公選択(アルベルト編、アイシャ編……)と異なるのは、補足58で書いたような違いに加えて、主人公を変更した再プレイが作り手にもユーザーにも想定されておらず、実際にそれをやる人はまずいないということもある(念のために言うと、リセマラは「主人公を変更した再プレイ」に該当しない)。現実的に考えて、アイギスの○○編は一人の人生においてどれか一つを一度しか体験できない点でロマサガの○○編と差別化される。

・動物の権利



に書いた通り、俺は動物の権利がよくわからないので学ぼうと思って読んだ。
読む前に考えていた、ここを抑えておきたいというポイントは

1.動物の主体的な権利はどのように担保されるのか?
2.動物の苦痛についての議論はどのように行えるのか?

の二つ。
1の主体的な権利というのは、人間の権利から間接的に導かれるのではなく動物それ自体が持つと想定される何らかの権利という意味であり、「動物虐待は動物の持つ(何らかの)権利を侵害するため禁止すべきである」という主張をもたらす(一方で、「動物虐待は児童虐待を誘発するため禁止すべきである」という主張は、最終的に人間の権利に帰着されているので回避される)。
2の苦痛についての議論というのは、クオリアのような次元の内面の議論を行っているのだろうかという含みがある。人間同士ですら厳密には行えない内面世界の定量化を動物に対して行えるとはまず思えないが、動物保護に際して動物の苦痛について議論することは一般的なので、科学的な根拠はどのくらいのレベルで提示されるのかな~と思った(どうせ無理だろうからあんま期待してないけど)。

以下、解答編~
1.については「我々が理由なき虐待を忌避している限りは動物は主体的な権利を持つと想定される」らしい……が、これを読んだとき、俺は思わず著者の経歴をGoogle検索してしまった。どっかの大学教授だから多分そこまで変な人ではないけど、動物の権利推進派の人間っぽい?ということがわかって安心した。
だってこれ、論理的には同値変形で、そもそも意味を成していない。主体的な権利とは理由がなくても担保されるものであるから、理由なき虐待に抵抗を持つのは当たり前である。ただの言い換えで理由ではない。
ただ、誤っているというわけでもない。理由なき虐待を肯定する人を個別に説得する材料にはならないというだけで、過程はともかく現状として理由なき虐待を忌避する人が多数派を占めている社会で総体的に運用されるべき主張の基盤としては正しい。

補足59:ロジックではなくポジショニングに依拠した議論はTwitterでめちゃめちゃよく見るもので、その理由の半分くらいはRT機能にある(RT機能は論理的な根拠は必要とせず、結果への賛同だけで駆動する)。
まあ、ほぼ全ての議論は公理を置かずに突き詰めれば最終的には個人のポジショニングに収束していく(徹底的に相対化されたものは最後には個人の好き嫌いに行き着く)ことを考えれば、どちらが劣っているとも言えず、主張のレイヤーの違いと見做すのが妥当。


せっかくだしこの主張に従って考えてみると、俺は他人が猫を虐待する分には全く止めようとは思わないけど、自分の手でやれと言われたらあまりしたくないと思っている節はあって、それが権利を認めているということなのかもしれない。
例えば、とつぜん子猫と包丁を渡されて「その子猫を殺すか100円払うか選べ」と言われたら、俺は多分100円払って殺猫(さつねこ)を回避する。300円でも払いそうだけど、1000円となると怪しい。生存権を認めるのは理解できないと言いつつも、実は心の奥で500円分程度は認めているのか、それともその経験が後に500円出費程度のネガティブな記録になることを危惧しているのか……

2.については人間の神経系とかからのアナロジーで身体医学的に考えれば苦痛を感じることにした方が妥当じゃん?くらいの話で、ああそうみたいな感じだった。

疑問はあまり解消されなかったけど、死と死に至る過程についての話(「動物は即死させることは傷付けて放置するよりも倫理的か?」みたいな)とかはまあまあ面白かった。