LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

8/30 シックスは過小評価されてる

・お題箱23

34.自分は逆張りオタクなんですが、自分が逆張りオタクであると気付いてしまうと、何かを選択した時に感覚的に選んだのか論理的に選んだのか逆張りオタクだから選んだのか…と謎の3つ目の基準が出現します。
実際には色んな要素の総合で選択するのでしょうが、逆張りオタクだからという理由だけが自分の中で大きく浮いていて說明できず、気持ち悪いです。

逆張りオタクとは「甘い物が好き。食うと美味い」とかそういう感覚的なものであるか、ただ自分の行動を振り返って逆張りオタク的だと気づいただけ、のどちらの面が大きいんでしょうか

LWさんの中の逆張りオタクがどちらなのか、逆張りオタクという属性?考え方?に対する意見を教えてください

質問に応じて「感覚的な話」と「論理的な話」をしようと思うのですが、その前に「謎の3つ目の基準」を処理しておくと、「自分で定めた自分のキャラに従って動いた」みたいな話ですかね?

例えば、本当は焼きそばもラーメンもカレーライスも同じくらい程々に好きなんだけどとりあえず「自分は焼きそばが好き」ということにしておくと、昼食を選ぶのに悩む手間が省けるし、何より、根拠に基づいてしっかりした選択をした気分になれるので気持ちいいですよね。
人間は整合性が大好きな生き物なので、間に合わせの設定を作ることで行動に整合性を付与して生きやすくするライフハックはよく発動します。逆張り人間だからという理由で逆張りするのもこの類のものかもしれません。

さて、感情的な部分については、「甘い物が好き」と同じレベル(これはさっきの「焼きそばが好き」とは違って本当に好きなケースです)で世間受けしないコンテンツが好きっていうことは普通にあると思います。
生まれも育ちも人間色々ですから、(よく中学二年生がアイデンティティを確立するために行う儀式を経由しなくても)嗜好がたまたまマイノリティ側に属することくらいはあるでしょう。全てが逆張りでなくても、世間的にはウケがいい無数の典型の中で一つや二つは気に入らないものがあるくらいは不思議ではありません。僕も相当な逆張りオタクですが、恐らく生得的な現実逃避願望のあまりある種のハッピーエンドを忌避する性質を持っています。

論理的(?)な話については、目的に対して逆張り行動が最適なケースがあると思います。
例えば、あらゆる作品の評価の目録を作りたいという知識欲を持っている場合……自分の作品評価リストみたいなものを実際に見ていないものも含めて可能な限り拡張していきたいと思っている場合は、もう大勢が見ていて自分が見なくても概ね評価が予想できる作品と、誰も見ていなくて自分こそが消費して評価しなければ全くの未知である作品では、後者の消費を選択した方が「作品リスト」的なものは漠然と充実するはずです。

他にも見栄を張りたい気持ち(メジャー作品を知らんよりマイナー作品を知っている方が通っぽい)とか、既知のものより未知のものを好む処女信仰的なものとかも色々あって、仰る通り、人によってそれらが適当な配分でミックスされて逆張りオタクになるんでしょう。
僕に関して言えば、マジョリティと嗜好がズレている(上に書いた感情的な話)のが一番デカい気がします。

ファニーゲームの感想

mig[1]
ファニーゲーム」という映画を見た。かなりいい映画でLW映画ランキング五本の指に入ったのだが、なかなか感想が書けないまま一ヶ月くらい経った(八月の更新が無かったのは単に忙しかっただけだけど……)。

感想のアウトラインはもうわかっていて、「『こういう概念があるはずなんだけど理論上可能かどうかはわからないし作品化は無理かもしれない』と漠然と思っていたタイプのものが完成していて驚いた」みたいなこと、以前にも二式で「阿知賀編の感想」で書いたようなことを書けばいいのだが、ファニーゲームで完成したところの概念が実は未だに掴み切れていないので話がまとまらない。
具体的には「完璧な悪意の寓意」で、アニメでそれを表現するのは多分無理だろうとも思っている。

補足56:俺はアニメというメディアにあまり執着がないのでアニメの限界については割とどうでもいいのだが、「ファニーゲームをアニメで作るのは無理だと思う(これは俺がアニメを卒業する動機になるかもしれない)」的なことを話したら「ちゃんと説明しろ」という抗議を受けたのでそれも込みで書くことにした。

恐らくこの話にはある種のファジーさがキーになっていて、

・「完璧な悪意」には「ある種のファジーさ」が必要であること
・「ある種のファジーさ」を表現できるメディアは限られること

の二つを書く感じになるだろうとも思っている。

多分いま俺が言いたい「ある種のファジーさ」は2年以上前のこのツイートが言う「不透明で理不尽な悪意の漠然とした嫌な感じ」に近いが、今も説得力のあることが書けない。

まあでも、断片的なヒントがあるのでそれを書く。

補足57:日本語としての悪意の定義は辞書を引くと書いてあるが、単語の定義がしたいわけではない。俺は今なんとかしている伝えようとしている「最大の不愉快さを持つ脅威の一種」にとりあえず悪意という単語を割り振っただけで、まだ定義されていないその正体はこれから明らかにする。

まず、悪意は脅威の度合いが確定していないときに一番不愉快である(脅威の確定度合いと悪意の不愉快さは概ね反比例する)。

例えば、関係において。
「完全に敵対した関係」というのは、実はあまり嫌な感じがしない。俺は人間関係の希薄な人生を送って来たので漫画の話をするが、「強い信条に裏打ちされた目的を持ち、それが結果的に反社会的になったり主人公勢の利益と対立する」ことで敵としての悪のポジションにおさまるキャラクターはあまり不快さがない(たいてい読者人気も高い)。俺は悪意には本当に不愉快であってほしいと思っていて、大多数が魅力的だと感じるものにその地位を与えるわけにはいかない。

次に、事態において。
眼前で既に起きている事態の酷さは悪意の不快感とはあまり関係がない。シンゴジラや自然災害は最大効率の被害をもたらすが、生じた不利益ではなくその原因自体に対して悪意による不快感を感じる人は少ない。結果は結果としてただの被害であり、その大小は悪意にとってあまり問題ではない。
「天災が悪意的ではない」という問題については「確定している」という以外に「あまりにも神々しすぎる」というスケールの問題もあるが、たぶん「天災は無人格である(もしくはあまりにも超越した人格を持つ)」というところも大きい。悪意を行使するにはある程度の人格が必要であるという話はまた後でする。

心理学的には、「脅威の確定度合い」は恐怖と不安の違いに対応する。
恐怖は明確な単一の脅威(例えば職場の上司)に対して抱く感情だが、不安は明らかにできない漠然とした脅威(例えば失敗するかもしれないという可能性)に対して発動する。恐怖的な脅威は可能世界の一部を黒く塗りつぶす(逆に塗り潰されていない部分は完全に白いままである)のに対して、不安的な脅威は可能世界のほぼ全域を灰色に塗り潰し、どこが白く残っているのかよくわからない。悪意は恐怖よりは不安に近い。

多分、悪意の媒質は言葉である。言葉は「物理的に確定しない脅威である」「可能世界を侵食する」という二つの特徴にもよく適合する。

天災による脅威はあまりにも超越的であるために悪意を感じられないということをさっき言ったが、悪意は無人格であってはならないという要請を素直に受け取ると、悪意は人間的であるということになる。明らかに利益によって行動している強盗犯のような性質は論外として、悪意を好む人格に思い当たる節はいくつかある(HELLSINGの少佐とか、ネウロのシックスみたいなやつ)。
しかし、これも「悪意の寓意」からは少しズレる。これは悪意というよりは寓意性の問題なのかもしれないが、「親切そのもの」と「親切を好むひと」は違う。「悪意を好む」という性質は悪意からすればノイズであり、消去しなければならない(それがない形でも成立する必要がある)。悪意的な脅威を生産する人格が信条や嗜好のような内面とは切り離されて存在する。

ある人物の内面が明確に描写されない場合、有り得る可能性としては

1.実際には理解可能な内面が存在するのだが、描写を省いた
2.そもそも内面を全く持っていない無機物的な人物である
3.何らかの内面を持っていると予想はされるが、それは我々の規定の埒外である

の三つ。
真の悪意には3(程々に超越的)が必要なのだが、アニメでは1と2のどちらかに収まってしまうような気がする(「そもそもアニメで使う記号という概念が、理解されていることを前提とする対象を指示するため……」というそれらしい説明も考えたが、実感としてかなり嘘臭い)。

ちなみに、有名な「時間戻し」「画面外へのウィンク」等については無いよりはあった方がいいくらい。悪意の完全性みたいな話もしようと思ったが(俺はそれも含めて好きなんだけど)、本題とはあまり関係ないので省いた。


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