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18/9/23 はねバドの感想 ではなくセッションの感想

・はねバドの感想(主にセッションの話)

俺はスポ根ものっていうジャンルあんま好きじゃないんだけど、映画セッションはそれを超えた作品として優れていて、はねバドにもそんな立ち位置を期待していたが、特に果たされなかったということを書く。はねバドの感想のつもりだったけど、ほとんどセッションの話になった。

スポ根というのは「スポーツ根性もの」の略なわけだが、最近のアイドルものや音楽ものも広義のスポ根ものに括ってしまってもいいだろう。
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そうやってスポ根と言ったときに大抵描かれるのは努力と勝利であって、もう少し一般化して言えば過程と結果である。この二つが両立され、苦労した上で栄光を勝ち取るというのが一番素直なフォーマットだ。
俺なんかは「どう考えても努力しないで結果を出せるのがベストだろ」と思ってしまうから、過程の優位(=どれだけサボれるか)と結果の優位(=どれだけ勝てるか)のどちらかしか取れないというジレンマの関係にあるような気がしてしまうのだが、一般には結果の方を重視し、「サボらずに栄誉を取る」というのが好まれる。
まあ、「サボりたい」とは言わないまでも、結果を得るための過程がほとんど不可能なほど困難なのでどうしようという状況が描かれることはよくある(最近アイシールド21のそんなツイートが流れてきた)。その一方、逆にほとんど努力をしないで結果だけを出せるキャラなんかもわりとよく頻出するもので、星宮いちごも大空あかりの登場後には差別化のためにそんなポジションに収まった。色々なバリエーションはあるが、全体的には努力信仰に回収されるあたりがスポ根の宿命ではある。

いずれにせよ、概ねスポ根ものは過程と結果というフォーマットをなぞることはほぼ間違いない。というか、そのフォーマットを持つものがスポ根ものなのかもしれない。
このフォーマットを用いて様々なパターンを類型分析……ということには、特に興味が無い。細かい分類はどうでもいいのだが、いずれにしたって過程と結果は狭い枠組み内での「ごっこ遊び」にならざるをえないというところにスポ根ものの限界があり、セッションはそれを打開したところに価値があるという話をする。

さて、スポ根ものと言ったときにもう一つ自明に想定される条件は、何かゲーム的なものの中で行われるということ。
ゲームというのは「ルールがある」という意味だが、もう少し狭めてもいい。ルールと共に、試合場だかステージだかがあり、歴史があり、他の参加者がいる。スポーツ、アイドル、音楽、全部そんな感じ。
スポ根もので過程と結果というフォーマットがあるということはさっき書いたが、その具体的な内容はルールに拘束されてくる。過程については、スポーツなら身体を鍛えるなり、アイドルなら歌の練習なり、音楽なら楽器をうまく弾くなり。結果については、どれもだいたい大会だかコンクールだかでの勝利だ。
もちろん、ゲームをテーマにしているにも関わらずルール内での過程と結果を特に重視しない作品もある。野球で言えばとにかく金銭獲得を目指すワンナウツとかグラゼニあたりがルール外での過程と結果を扱っている作品としてそれに該当するが、それらはふつうはスポ根とは呼ばれない。ルールに縛られていることは、スポ根にとって意外と重要な条件なのだ。

少し意地悪な言い方をすれば、直接的な利害に直結しない括弧含みのイベント、すなわち「ごっこ遊び」での勝利を目指すのがスポ根ということになる。にも関わらず、「所詮はごっこ遊び」という冷めた目線でコンクールや大会を扱うスポ根ものは存在しないのは、ごっこ遊びにおける努力と勝利を人生における努力と勝利に結びつけるという、ある種のアナロジーが機能しているからだ。まあ、現実問題としてその二つはイコールであることが多いのだが(羽生結弦を見よ)、だからといって「社会的な成功に貢献している限りにおいてゲームにおける勝利は素晴らしい」という描き方をするスポ根ものはない。ジャンルの前提として、作品が始まった時点から同一視が既に要求されているのである。
ちなみに俺がスポ根ものを見ても心が特に動かないのは、俺の中ではアナロジーが機能しておらず、ごっこ遊びを独立して捉えて大きな意味を与えないからだ(楽器がうまく弾けたから何なんだ?)。しかし百歩譲ってアナロジーが可能であったとして、つまり、ゲーム内での勝利がただちに素晴らしいものであったとして、今度は逆に自明にアナロジーが前提されているが故の物語空間の狭さ、素朴に言えばスポ根というジャンルがマンネリになりやすいことが浮かんでくる。スポ根ものが手垢だらけなのは、価値判断に関わる重大な部分で定式化という思考停止が陽に行われているからだ。そのあとで展開できるストーリーは過程と結果に関わるものくらいしかない。

さて、以上の経緯を踏まえて、映画セッションが果たしたスポ根もののアンチテーゼとしての振る舞い、逆説的に音楽をごっこ遊びではなく真に肯定する構造について確認していく。

セッションは中盤までは典型的なスポ根映画である。結果を得るためには努力が必要であるという世界観のもと、主人公は結果を求めて苛烈な指導を行うサイコ教師のもとで文字通り血の滲むような努力を重ねる。
ただし、明らかに結果よりも過程の方が強く描写されている点は注目に値する。サイコ教師がパワハラ絡みで問題視され結果を求めることが素直に肯定されない点、主人公が大一番で事故って普通に失敗する点は、いずれもジレンマとしての過程の認識がある。この段階ではラストで普通に大成功するんだろうなという予測も可能だが、いずれにせよ準備段階で中途半端なスポ根を回避しているところがある。

転換点となるのは、やはりサイコ教師がパワハラ告発を行った主人公を攻撃するために罠に嵌めるシーンである。
このとき、サイコ教師は音楽自体を放棄していることに注目したい。主人公に恥をかかせるためだけに主人公には正しい楽譜を教えずドラムを失敗させ、全体の演奏はめちゃくちゃになった。主人公を罠に嵌めるためにコンサートを犠牲にしているのだ。
サイコ教師はそれまでは完璧な音楽を求めてパワハラも辞さない人間であるかのように描写されていたが、ここに来て図と地が完全に反転する。パワハラ的な人格こそが本質であり、自分の面子を守るためであれば音楽を捨てることができるのだ。教え子の顛末に涙するエピソードがあるあたり音楽に入れ込んでいることは事実なのだろうが、最終的な優先順位としては面子>音楽である。

サイコ教師がコンサートを放棄し、演奏の中で決着をつけるという暗黙の合意を捨て去ったことにより、音楽というゲームはここで完全に破壊される。また、それに伴って主人公とサイコ教師の人間関係はごっこ遊びの領域を脱し、現実で本当の、何でもありのバトルに突入する。ここではごっこ遊びを類推的に変換する必要もなく、全ての振る舞いが本当の振る舞いになる。
それを踏まえると、クライマックスの主人公の暴走した演奏はそれまでの演奏とは異なるレイヤーに置かれることがわかる。もはやルール無用の世界において、音楽は暴力や告訴と同じ重みしかない選択肢の一つとしてしか存在できないのだが、主人公はあえて音楽に訴える。この音楽に対してはもはや類推による変換が機能しないので、その価値は自明ではないし、「うまく弾けたから何?」という疑問も封じられる。現にパワフルな演奏が意思疎通を成功させたという事実を直接に理解しなければならないために俺の胸も打てるわけだ。更に言えば、その真正性はサイコ教師によるゲームの破壊を経なければ主人公がどれだけドラムを叩いても得られなかったもので、まさにセッションと呼ぶにふさわしい見事な構造がある。う~ん、名作。

補足154:ただ、俺が肯定できるのは音楽が暴力と同等のパワーを持ったというところまでで、「音楽の力で全人格的に信頼関係を修復した」的な解釈はごっこ遊びのナイーブな変換に逆戻りしていてあまり好きではない。「演奏は良かったがそれはそれとしてお前を殺す」くらいの距離感であってほしいが、まあ、どうなんでしょうね。

はねバドでは、主人公はバドミントン自体を放棄することはないにせよ、明らかに類推的な変換を肯定しないスタンスを取っていたので注目していた。強いから試合には勝つけど、もう完成しているから過程を持たないし、態度も悪いしで現実的な成功からもむしろ離れていくというのはごっこ遊びへの抵抗力を示している。
アンチテーゼってアンチする対象をきっちり示していないと最初から別ジャンルになってしまって成立しないので周りがスポ根していることにも好意的だったけど(セッションも中盤までは典型的なスポ根をやっていた)、結局はスポ根の文脈に飲み込まれてちょっと捻くれた主人公くらいで終わったと言わざるを得ない。ポテンシャルを感じただけに残念だった。