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21/11/24 お題箱回91:機械学習というワードのニュアンス、少子化とサステナビリティ、コンテンツの性感帯etc

お題箱回91

354.機械学習の記事を見て、面白そうなので手を出してみたいのですが、そういう順序で進んでいったらいいでしょうか?
インターネットがどういう仕組みで動いているか理解していないレベルなので、ここら辺からだとは思うんですが、、、https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%83%9F%E5%BC%8F%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88IT%E5%A1%BE-%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%83%85%E5%A0%B1%E6%8A%80%E8%A1%93%E8%80%85-%E4%BB%A4%E5%92%8C03%E5%B9%B4-%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%BF%E3%82%8A%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%98/dp/4297117819/ref=zg_bs_502776_1?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=TSDYGCP9GATEDGYJQ9DV

機械学習の記事はこのあたりでしょうか。ありがとうございます。

saize-lw.hatenablog.com

saize-lw.hatenablog.com

機械学習はかなり面白い上に有益なのでオススメです。最近Twitterでよく見る魔法みたいな謎技術の背後には大抵は機械学習があると言っても過言ではありません。特に最近ではイラスト自動描画、イラスト3D化、文章自動筆記といったオタクの創作に関わるシーンでも存在感を増し続けており、サイゼミでも詳しくない人への普及を試みる意図で機械学習回が開催されたのでした。

リンクを貼って頂いたのは基本情報技術者の資格教本ですね。僕はその資格を持っていますが、機械学習の理解には不要だと思います。「手を出す」というのが「実装する」という意味ならばいずれ必要にはなりますが、「とりあえず知りたい」くらいの意味であればパソコンやインターネットがどう動いているかは知らなくても構いません。

たぶん「機械学習」という名前が致命的に良くなくて、そこで混乱を招いている気がします。「機械学習とはおそらく機械の学習のことだからまずは機械について勉強しよう」というのは全く自然な流れですが、「機械学習」という単語で力点があるのは「学習」の方で、「機械」は修飾子に過ぎません。そしてそれもコンピュータのような具体的な機械を指しているというよりは、「機械的」という形容として解釈した方が正しいニュアンスに近いです。それはどういうことかという話をします。

まず、「もともと学習は人間にしかできないと考えられてきた」という大前提があります(ここで言う「学習」とは「外から情報を取り込んで自らをアップデートすること」くらいの意味です)。
人間は本を読んだり人から話を聞いたりすることで、前は解けなかった問題が解けるようになったり秋田犬とハスキー犬を見分けられるようになったりする能力があります。その一方、機械は基本的には渡されたタスクを言われた通りにこなすことしかできません。例えば、昨日は足し算しかできなかった機械が今日は掛け算をできるようになっていたとしても、「機械が自ら掛け算の式を見て掛け算という概念を学んだのだろう」とは普通は考えません。「持ち主が計算ソフトをアップデートしたのだろう」と考えるのが自然です。機械には自己アップデートなんて出来ないので人間様が手取り足取りアップデートしてあげるものであるというのが常識的な感性であり、今でも大抵の人はそう思っています。

しかし、「実はこういう手順で計算させれば機械にも学習みたいなことができるっぽいぞ!」ということが発覚し、その計算の手順をまとめたものが「機械学習」です。つまり「決まったことしかできない機械でも学習ができる」、すなわち「人間が介入しなくても機械的な手順で学習ができる」という点が最も重要なニュアンスであって、メモリがどうとかレジスタがどうとかいう具体的な機械のテクノロジーは少なくとも原理的にはあまり関係がありません。
よって、気合さえあれば機械学習は人間でもできるというのは端的に事実です。何故ならば「こういう手順で機械的に作業すれば学習っぽいことができる」という知見が機械学習ですから、その手順に従って紙とペンの上で手を動かせばそれだけで機械学習と全く同じ営みが可能だからです。

ただし機械の勉強は不要な代わりに数学の勉強は必要です。
というのは、人類史において定量的な作業を表記する手段としては(自然言語ではなく)数式が選択されてきたため、機械的な学習の手順は全て数式で記述されるからです。具体的にどういう数学が必要であるかは以下の本が偏執的なまでに正確にまとめているので参考になります。ただ、これはかなりちゃんとした本なので初手からやるにはハードかもしれません。

いずれにせよ、機械の勉強よりは数学の勉強をするという意識で始めるのが無難だと思います。極端な話、理系ではない人が機械学習を本気でやるのであれば、最初に触れるべきが高校数学の検定済み教科書であることは間違いありません。

 

355.好景気になった程度で個人主義自由主義が生まれた時から身体に染み付いている現代人が本当に少子化を解消(具体的には出生率2.0超えを果たす)できるのか疑問です。

僕も同感です。子作りという選択肢を選びたくても選べないのではなく、そもそも子作りという選択肢自体を魅力的だと考えていない層をどう誘導するのかという議論があまり行われていない印象はあります。

補足397:僕は「国家は自らを維持しなければならない」とまでは言いませんが、「国家は自らの維持を目的の一つにしても構わない」と考える方です。よって、(国民がそんなに望んでいないとしても)国家が子作りを誘導して自らの維持に必要な国民の質と量を確保しようとすること自体への批判はあまりありません。

ただ、「人々が子作りという選択肢をどのくらい魅力的だと思っているのか」というような事柄を推測する僕のセンスはボロボロですから、僕や投稿者が勝手にそう思っているだけで、実際には「潜在的に子供を作りたい層」はたくさんいて、彼らはお金が手に入ればポコポコ子供を生み始めるのではないかという疑念は拭い難くあります。そもそも現在の特殊合計出生率の値1.35も僕の直観とは全く合致していません。僕の感覚だと0.85くらいです。

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これに関連して最近非常に面白いと思ったのが、少子化が世界のサステナビリティを破壊するのではないかという話です。

ta-nishi.hatenablog.com

今まで当たり前のように言われてきていた「我々の世界はなるべく良い状態で未来に温存されるべきである」という大前提、つまり「百年後の地球を守るために環境破壊をやめよう」というような道徳は、実は「子持ち」という特殊な属性を持つ人々だけが共有できるローカルなイデオロギーであって、そうではない人々は全く参入する動機がないということです。
「自分の死後の世界が悪くなっても全く構わない」と考える人が増えた場合、そういう人が寿命を迎えるたびに世界は少しずつ悪くなっていきます。ここに「悪い世界では子供を生むべきではない」という判断が加わると、子供を生まない→世界のサステナビリティが志向されない→世界が悪くなる→子供を生まない→世界のサステナビリティが志向されない……という発散型のフィードバックループが成立します。

よって少子化は貧困とかリベラルな価値観の普及みたいな他の要因から発生する結果ではなく、結果と同時に原因にもなれる再帰的な因子であるとするならば、我々がたまたま足を踏み外してしまったこの時点が終わりの始まりであると思うのはかなり夢がありますね。

 

356.少年漫画と少女漫画の非対称性

「少年漫画」と「少女漫画」で対称なのは名前と遥か昔に想定されていた読者層くらいで、内容的には特に対称でもないという印象はあります。「対称ではない」というのは「同類である」という意味でもなくて、アクション漫画と推理漫画が別ジャンルであるのと同じくらい独立してそれぞれの文法を持っているという意味です。
とはいえ僕は少女漫画にはあまり詳しくないので、誰かもっと詳しい人が史実を絡めて語っていそうな感じはします。

 

357.LWさんは作品の文脈やその内部の部品の成り立ちといった形式で作品を評価していますよね。アニメーションを見ているようで見ていないというか。それを除いた、多くのオタク達が行っているようなビジュアルやストーリーそのものを鑑賞することはないのでしょうか?

仰る通りです。
基本的にお話ベースで作品を評価するので、小説でもアニメでも映画でもコメントに大差がなく、そういう意味でアニメーションを見ているようで見ていないというのは僕もそうだなと思います。それ故にいわゆるアニメーションオタク(監督や作画、制作技術等に詳しい人)とは関心が合致していません。
また、ここで言われている「ストーリーそのもの」というのは、たぶん(僕がよく評価している整合性とか新規性という文脈ではなく)新しくなくても整合していなくてもいいからキャラクターたちが確かに存在するはずの「そういうものとしてのお話」という意味ですよね。確かにそういうやり方で「共感して泣いた」みたいな感想を書くことはほぼありません。

しかし、僕がビジュアルやストーリーを鑑賞していないというのは大きな誤解です。鑑賞しているし大いに心を動かされているが、それをブログで発信する意味を感じないのでそうしないというだけです。
実際、僕は(主に美少女キャラクターの)ビジュアルをTwitterでよくリツイートしていますし、discordやLINEのような閉じたコミュニティでは何が好きで何が嫌いで~という話やカップリング萌え語りもかなりやります。

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(↑原神の新キャラでカップリングを真剣に検討している)

ただ、それは極めて個人的な好みですから、僕の理解を深める役には立っても作品の理解を深める役には立ちません。よって親しい友人にだけ共有すれば済むことで、ブログで公に書く意味はありません。

補足398:こういう「共有する意味のない極めて個人的な好み」のことを僕は「性感帯」に喩えて若干軽蔑的な文脈で使用することがあります(例:「性感帯の話をしても仕方なくない?」)。

ただ、自分で創作をしたときの経験で若干気持ちが変わりつつはあります。僕は自分の創作ですら自分の性感帯を発信する意味はないと思っていたので、「僕はこういう感じのキャラが好きで~」みたいな話はせず、徹底して「このキャラはこういう役割で~なんとか主義者で~」という話しかしませんでした。
しかし、会ったこともない人にネット上で「こいつ好きー」とか言ってもらえるのは普通にかなり嬉しかったので、なんか性感帯語りにも実は結構ポジティブなパワーがあるなという気付きがありました。今でもわざわざ単独の記事で書くことはあまりありませんが、消費コンテンツまとめ記事とかでは一言二言「こいつが好きです」とか割と書くようにしているのはそういう心境の変化があります。

 

358.マイクラの建築ガチで上手いですね
ツイートした奴以外にも作ったものがあれば見せてほしいです

タイミング的にこれですかね? ありがとうございます。

これはたまたまマルチプレイのサーバーに紛れ込んだときにとりあえず自分の家を建てたやつですが、以前は二年くらいソロプレイで延々とプレイしていてそれなりにヘビープレイヤーでした。この辺がなかなか上手く出来ていると思います(「ツイートした奴」って上のツイートのやつ一つのことか、それとも過去にツイートしたやつ全てを含むんですかね?)。

村人の取引の仕様が変わったあたりでよくわからなくなってあまり触らなくなりましたが、勉強し直して久しぶりに触ってもいいかもしれません。

21/11/8 2021年8・9月消費コンテンツ

2021年8・9月消費コンテンツ

8月はコロナ禍で精神のバランスが破壊されてコンテンツ消費どころではなかったので9月とまとめます(感染はしてない)。十年後とかに見直したい気もするし、コロナ禍の諸々もいずれ記事にしてもいいかもしれない。

元気がなかったのでAmazonPrimeとかUnextで適当にズアーッと一覧から面白そうなものをピックするという普段はやらない見方をしていたのだが、意外と粒揃いの映画が見られて悪くなかった。

 

メディア別リスト

書籍(5冊)

統計学を哲学する
発狂した宇宙
図解雑学多変量解析
多変量解析のはなし
図解でわかる多変量解析

映画(6本)

LOOP
メンインブラック
大誘拐
残酷で異常
トランス・ワールド
ダーク・スター

アニメ(13話)

ウマ娘2期 全13話

 

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

統計学を哲学する
ウマ娘2期
LOOP
ダーク・スター
残酷で異常

消費して損はなかったコンテンツ

発狂した宇宙
メンインブラック

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

大誘拐
図解雑学多変量解析
多変量解析のはなし
図解でわかる多変量解析
トランス・ワールド

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

(特になし)

 

ピックアップ

統計学を哲学する

かなりの良著。賛否両論なのは理解できるが、俺は全面的に賛寄り。

タイトル通り統計学と哲学を架橋しようとする一冊。哲学サイドから見れば哲学的な理念が統計学においてはどのように実践として営まれているかを見ることになるし、統計サイドから見れば統計的な概念が実際のところどのような哲学的含意を持つかを見ることになる。俺は理系の人間なので主に後者として読んだが、いずれにしても高度な異分野交流はほとんど達成されているように思われる。

俺が観測した範囲での批判としては、統計学サイドからは意味論の議論について、哲学サイドからは認識論の議論について疑問の声が上がっているようだ。例えばこの本では確率の意味論としてベイズ流においては確率は主観的な確信度を意味するという古典的な主張を前提しているが、それを額面通りに受け取ってしまえば、ベイズ流の手続きを用いた科学論文は全て実験者の主観的な確信度を報告するエッセーであることになってしまう。一方、認識論の方はベイズや古典統計といった実践的な流儀の背後に内在主義や外在主義といった認識論的態度を見ることにアナロジー以上に何の意味があるのかが疑問に付されているらしい。

だが、それらの批判はむしろこの書籍の議論が第一次近似として問題なく機能しているが故に提出される第二次以降の建設的な調整項であるように思われる。俺はこういうことはとりあえず決め打ちで叩き台を敷設することが決定的に重要なのだと考える方だし、現状では解像度がそこまで高くないことは著者にも認識されている。

個人的には「確率変数及び分布とは結局何なのか」に答えを与えようとする存在論に関する議論が最も面白かった。自然の斉一性を踏まえて適切に世界を分節するための仮説的な自然種として統計モデルを理解することにより、他の自然科学と一貫する形で解釈を与えられる点が素晴らしい。純粋数学よりは現実の実体と接続しているが、実証科学よりは抽象の道具立てを用いる統計学において、虚数よりは現実的だが角運動量よりは抽象的な正規分布という概念は結局何なのかという存在論的な把握はどれだけ漸進的な改善の余地があるとしても最大の価値を持っているだろう。

一応注意として、この本が事前に要求する統計学の知識はそれなりに高い。少なくとも古典統計の検定論とベイズ推定の基礎くらいはわかっていないと中盤はまともに読めないと思われるが、徐々に難しさがランクアップしていく方式なので読めるところまで読んで諦めてもいい。

 

ウマ娘2期

saize-lw.hatenablog.com

書きました。
ライスシャワーが虐められる話だけは局所的に良かったが、全体としては虚無寄りではある。アグネスタキオンが出なくて悲しかった。

 

LOOP

良作。タイトル通りのループもの、繰り返される世界でバッドエンドを回避するために主人公が頑張るよくある話で、最後のどんでん返しも含めてシナリオ自体にはそこまで光るものはない(普通に面白いレベルではある)。

「おっ」と思ったのは、この作品では「ループの継ぎ目」が絶対に描写されないところだ。ループものであるにも関わらず、主人公が「このループはダメだったか……!」とか言ってギュルルルとSF的なゲートを通って最初に戻る描写が無いのである。
登場人物全員が同じ世界を繰り返すタイプのループなので必ずどこかで過去に戻るポイントが全員にあるはずだが、映像はずっとシームレスに遷移していて、気付いたときには何故かヌルっとループしている。死んだキャラはいつの間にか蘇生するし、記憶を引き継いで次の周回に突入する主人公ですらどこで次の周回に入ったのかがよくわからない。映像を見る限りは円環状の時間がグルグルと回っているようにしか見えず、リスポーンポイントがどこなのかがよくわからない。

見終わってからしばらく考えてようやくわかったのだが、キャラクターによってループの継ぎ目(過去に戻ってリスポーンする点)がズレており、かつ、リスポーン地点を映さないようにカメラが移動しているのがトリックだ。ループもの特有の円環タイムラインを図にするとこんな感じになっている。

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ループものなので時間軸は環状時計回りに進むことにしよう。主人公もヒロインも時計回りに進むのだが、一周が終わって次の周回に入るタイミングが異なっているのだ。主人公は0時からスタートして12時間後にループして過去に戻るが、ヒロインは6時からスタートして12時間後にループする(ちなみにこれは説明のために一般化した図式を作っただけで、別に作中でこういう時刻であるわけではないし、主人公とヒロインの二人にしかカメラが注目しないわけでもない)。
カメラが主人公だけを追っていると12時の時点で過去に戻る描写が入ることになるが、それを回避するために12時よりも前にカメラが追うキャラクターがヒロインに変わる。このヒロインは6時にはリスポーンするが、やはりそこに入る前にカメラが主人公に変わる。よってヒロインが過去に戻るシーンも映らない。これを繰り返すことで、画面では誰もあからさまにループすることなく気付いたら何故かループしていたという映像が可能になる。この仕掛けは物語を連続的に再生し続けられる映画によく適合しており、なるほどと感心した(小説でこれをやってもあまり効果的でないだろう)。

 

ダーク・スター

ダーク・スター(字幕版)

ダーク・スター(字幕版)

  • ブライアン・ナレル
Amazon

全体としてはそこそこしんどいが、最後のオチだけ有り得ないくらい面白かった。

ただそれは構成が優れていたとかではなく、シンプルに一発ネタとしてオチが面白かっただけだ。ここに内容を書くとただのオチの説明になってしまうので書かない。君の目で確かめろ!

 

残酷で異常

良作。ヤンデレ主人公が宗教的な倫理を踏み越えて勝利するみたいな良い話だったが、ヤンデレ主人公が萌え美少女ではなくパッケージ右側のデブ男というのはネックではある。

内容とあまり関係ないのだが、ロボアニメのコックピットでたまにある「モニター越しに目を合わせて会話する」というギャグ演出が活用されていたのが良かった。

samepa.hatenablog.com

ここで紹介されている、アスカとシンジが何故かモニター越しに目を合わせて会話するやつ。エヴァでは物理的にはそうはならんけど何故かそうなっているというギャグなのだが、この映画ではモニターの先にいる会話相手が超越的な存在であることを示す表現としてシリアスに活用されている。例えばこのシーンがそうだ。

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右が主人公、左のモニターに映っているおばさんが死後の世界にいる神的な存在である。このおばさんは罪人である主人公たちに極めて高圧的に振る舞うのだが、その一環としてモニターの中から主人公を睨みつけているのだ。物理的にはモニターの中から直接外側を見ることは有り得ないのだが、それをナチュラルに行うことでこのおばさんが常識を超えた異常な存在であることを示している。更には遠くにいながらも至近距離で監視してくるという神的な存在の恐ろしさも表現されており、アニメのギャグではなく実写でこんな使い方があったのか!と感動した。

 

メン・イン・ブラック

人気映画らしく安定感ある名作。

地球を宇宙人から守る秘密組織のコメディ映画だが、キーアイテムである記憶消去マシンの扱いが抜群に上手い。記憶消去マシンは最初から一貫して治安維持のために事件を目撃した一般人の記憶を消す用途で使われており、その乱暴っぷりに主人公の陽キャ黒人が異議を申し立てたりもするのだが、最後のシーンで役割が反転する。主人公を勧誘した秘密組織の先輩が引退する際、このマシンで記憶を消すことによって情報漏洩の恐れがなくなり安全に組織を抜けられるのだ。ここに来て記憶消去マシンは救済アイテムに姿を変える。

つまりコメディの裏テーマとして描かれているのは忘却の二面性であるわけだ。途中までは忘却は強権的に隠蔽を行う暴力として描かれる一方、最終的には忘却は安寧に至る救いでもあると再定義される。反転したマトリックスというか、記憶の消去はブルーピルではあるのだが、ブルーピルなりの安寧もあるのは確かにそうなのだ。

 

生産コンテンツ

ゲーミング自殺、16連射ハルマゲドン

趣味で書いている小説の進捗報告です(前回分→)。8・9月は第九章「白い蛆ら」と第十章「MOMOチャレンジ一年生」を完了しました。
ついでに毎月キャラ紹介とかコンテンツを置いときます(ここに書く設定等は進捗に応じて変更される可能性があります)。

字数

219236字→247058字

各章進捗

第一章 完全自殺マニュアル【99%】
第二章 拡散性トロンマーシー【99%】
第三章 サイバイガール【99%】
第四章 上を向いて叫ぼう【99%】
第五章 聖なる知己殺し【99%】
第六章 ほとんど宗教的なIF【99%】
第七章 ハッピーピープル【99%】
第八章 いまいち燃えない私【90%】
第九章 白い蛆ら【99%】
第十章 MOMOチャレンジ一年生【99%】
第十一章 鏖殺教室【1%】
第十二章 別に発狂してない宇宙【1%】
第十三章 パラノイアエスケープ【0%】

 

キャラ紹介⑥ 此岸さん

主人公である彼方の実姉です。容姿は彼方とよく似ていてクールな美人です。

彼方が物心付いた頃から病気によって植物状態で、現在は彼方が住んでいる家の隅にある巨大ベッドでずっと眠り続けています。妹の彼方ですら、此岸と会話したことはおろか、目を開けている様子すら一度も見たことがありません。世界的な名医からも治療は不可能だと匙を投げられており、同居している彼方を除けば世界の誰からも忘れ去られた存在です。

しかし、彼方が家に帰ってくると此岸が作った夕食が用意されていることがよくあります。彼方が置いていったゲームを遊んだ痕跡があったり、家中の掃除が済まされていたりもします。それどころか彼女自身が寝ている布団の交換や点滴薬の補充までもが定期的に行われており、寝たきりであるにも関わらず介護は全く必要ありません。更には枕元に置かれた虹色の便箋を通じて簡単な意思疎通を行うことすらできますが、彼方が家にいるときは此岸は常に寝息を立てています。

彼方が見ていないところで此岸が明らかに目覚めて活動していることは一つの医学的な奇跡です。此岸の身体を研究すれば世界中で同じ病気で寝たきりになっている人がたくさん救われるかもしれません。しかし人間全般に関心が低い彼方は「そういうこともあるのだろう」くらいにしか思っておらず、この奇跡に大した興味を持たないまま放置し続けています。今日も彼方は此岸が作ってくれたオムライスを食べますが、彼女がそれをいつどうやって料理したのかは謎のままです。

21/10/23 お題箱回90:ワンプラ13話、東大王クイズ、GPS、腋、百合、地声etc

お題箱回90

344.13話が終わったら、ワンダーエッグ・プライオリティの感想聞きたいです。話が進むほどつまらなくなっていってません?

一応13話まで見ましたが、感想を持つ以前にストーリーが収拾されていないため何とも言いようがない宙吊り状態になっています。各設定が繋がるところまで話が進んでおらず、ただ途中でぶつ切りにして放置されているような印象です。個々のエピソードや要素は興味深いので普通にちゃんと終わらせてくれれば面白そうではあります。

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話が進むごとにつまらなくなっているということにも同意します。「すごい面白そうなアニメ始まった」→「これ本当に面白くなるのいつ?」→「せめて話を終わらせてもらえませんか?」という感じです。

 

345.ウマ娘2期もう見ました?

見たので書きました!

saize-lw.hatenablog.com

ライスシャワーが良かったのは書いた通りですが、全体としては一期と同じで面白くはなかったです。
ストーリーが単調なのは萌えアニメだからギリギリいいとしても、萌えアニメなのにビジュアル以外に好きな萌えキャラがいないのが結構きつかったです。プリコネもそうでしたが、サイゲームスが作る萌えキャラって表層的な性格のバリエーション作りに優れる一方で、根っこの価値観とか思想が逸脱しないように制御されている印象があります(「無難に良い子」のバリエーションが多いだけ)。
ちなみに僕はそれを「キングダム現象」と呼んでいます。『キングダム』は濃いキャラがたくさんいて喋り方や能力は多彩なものの目的と精神構造が皆同じ作品の典型だからです。

 

346.伊沢拓司が小学生レベルのなぞなぞを出したのはターゲット層のレベルに合わせているだけで、難しい問題を作る実力はありますよ(実際クイズノックの動画では難問を出してる)
クイズ作家の仕事は「解けない問題」を作る事ではなくて「ターゲット層がギリギリ解ける問題」を作る事ですから

このツイートの話ですかね? これは僕の例の出し方がかなり悪かったですが、僕が言及したかったのはクイズの難易度ではなくセンス、作問スタンスです。難しいクイズを作れるのはわかるし、実際、伊沢からの出題はだいたい他のクイズより難しいです。

僕はクイズノックの動画は見たことがありませんが、少なくとも東大王における伊沢からの挑戦状の特徴は、クイズのコアになるアイデアをそのまま剥き出しで提出することです。物語的な配慮をしないところに放送作家との違いを感じます。

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例えば適当に画像を拾ってきたこのクイズが典型的です。クイズの作問意図を理解することとクイズを解くことが完全にイコールになっており、「わからないけど面白い」とか「回答案の細部を調整する」という余地が全くありません。頭を捻ってそれらしい回答を吟味するような経緯には関心が無く、問題を構成する理論にのみ関心が偏重していて、それはクイズというよりは試験に近いために僕はクイズのセンスがないように感じると書きました。
もっとも、伊沢氏はもっとクイズらしいクイズも作れるが「東大生のアブノーマル感を出すために一見して意味わからんクイズを作ってください」と言われてこういうものを作っているのかもしれませんし、それは謎です。

 

347.TwitterのRTを見ていると、銀髪の美少女が加点対象となっているように見受けられますが、認識は合っているでしょうか?
合っていた場合、LWさんが感じる銀髪美少女の魅力や、中国圏で銀髪美少女が萌えコンテンツとして特別ほかの髪色の美少女よりも強いポジションになっていること(エビデンスは?となると、アークナイツやアズールレーン等で銀髪/白髪美少女が多い気がする…くらいのふんわりしたものですが)に対する考察や憶測など聞けたら幸いです。
私は黒髪陰キャ美少女が好きなので銀髪美少女の魅力が良くわかっていません。

完全に合っています。銀髪なだけで100点中80点くらい加算されます。中国圏では大人気だということもよく言われており、嗜好が中国化(チャイナイズ)されている感じもします。
銀髪属性に隣接する属性は神秘的・ミステリアス・クール・ダウナー・無口あたりなので、色彩を超えた理由付けとなるとそのあたりが人気だからということになるでしょうか(僕もそういう属性が好きです)。とはいえフェチズムとは「そういうものが好きだから」が根底であって、それ以上の理由は掘り下げというよりはむしろ副次的であるような気もします。

 

348.GPS機能をご存じでなかった件、"発達"仕草が高すぎて笑ってしまいました。
超高学歴かつアニメ等諸作品に対する考察が凄いな~とリスペクトしているのですが、電車をランダムに乗っていること等の発達エピソードを聞くと親近感とヤバ…という感情が半々くらいで沸くので、いつも楽しみにしています。この辺りのエピソードに関してはご本人もヤバ…と思いながらお出ししていますか?ウケるやろwくらいの感覚でしょうか?

あと、友人と合流するのが困難な場合、Zenlyという位置情報共有アプリを使うと便利かもしれません。簡単に言うと、フレンドの位置情報と自分の位置情報を共有して可視化できるアプリです。現代のJKはこれで待ち合わせするらしいです。

楽しみにして頂けるのは幸いですが、実害は普通に出まくっているし全然ヤバいです。

例えば僕がGPS機能を教えてもらうきっかけになったこの事件が起きたのは友達数人と脱出ゲームに行ったときです。脱出ゲームって人数固定で予約して貸し切って時間厳守なので遅刻するのは相当な重罪なんですが、僕一人だけが目的地に辿り着けずに周りをグルグルして脱落しかけていました。これもう完全に無理だわって諦めたときにdiscordでガチ謝罪を送っています。

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幸いにも親切なやつが会場から一度出て逆に僕を捜索することによって何とか辿り着いたものの、参加費3700円と友達からの信頼と休日の娯楽全てを一気に失うところでした。
もっとも、僕は生まれもった欠点を補うよりはその手間で長所を伸ばした方がよいと考える方であり、こういう特性を本気で矯正する必要があるとはあまり思っていませんが、状態としてヤバいかヤバくないかで言えば全ガチでヤバいです。

ただ、現状はGPSで概ねどうにかなっているので追加のアプリが無くても耐えられる気がします。チャリを漕ぐときは常に画面を見ているわけにもいかないため、決め打ちで1kmくらい漕いで信号待ちでGPSを確認したら全然別の方角に向かってたみたいなことは本当によくありますが、それもGPSがあるおかげで修正が効いて耐えてはいます。

 

349.百合コンテンツの良さが分かりません。
「男映らなくて美少女しかいないから得!」みたいな肉二倍バーガーみたいな楽しみ方をしている百合好きオタクと、「二人の関係性が~同性愛という禁忌性が~」みたいな妙に同性同士の恋愛を特別視して好きになってるオタクがいるな、というのが外野からの見解なのですが、LWさんの思う百合の魅力などあれば語っていただけると嬉しいです。

僕は完全に前者の派閥です。どういうキャラなのか何も知らなくても絵が上手い絵師のオリキャラがレズレズしてるやつで全然良いです。単独の美少女としていい感じかどうかが最も重要なので、単純な画力とかキャラ単体での造形を重視します。
関係性とかはあってもいいけどなくてもいいです。禁忌云々の話も得るものが特にないので同性愛がどうこうとかいう説明は全部省いてもらって、美少女同士が恋愛するのが世界の常識でそれには特に誰も言及しないやつが楽で好みです。

後者の派閥の人は色々語ることがある一方で、前者の派閥の人はあまり語ることがないんですよね。「百合とは関係性萌えである」とか言うと多少の独自性があって目を引きますが、「百合とは美少女萌えである」と言っても誰でも知っている美少女萌えという営みの延長でしかないのであまり目立ちません(実際そうですが)。そうやって可視化される言説の非対称性が、百合とは深淵でホニャララという過剰な持ち上げ風潮を作っている原因のような気はします。

 

350.なんで脇好きなの?

通常は汚い寄りの器官であるために、美少女は腋も絶対に綺麗なので逆説的に美少女ぽさが際立って担保されるみたいな感じだと思います。Twitterでのガチな腋フェチ絵師はよく匂いフェチと複合していますが、同じ理由で僕は絶対いい匂い派です(毛有り派・臭い派とは敵対しています)。
ちなみに英語だとarmpit(腋)という単語には特に汚いという意味が込められていて、「嫌な匂いのする場所、汚い所、むさ苦しい場所」くらいの意味まであるらしいです(豆知識)。

 

351.これはお題箱の内容に関してブログで触れる前にTwitterで軽く呟いていらっしゃるというメタも込みでの質問なのですが、LWさんによる映画20選(ベスト20ではございません)をパッと挙げていただけないでしょうか。タイトルの列挙で構いませんので

要望頂いた通りにあまり考えずにパッと上げるとファニーゲーム、トーキングヘッド、巨神兵東京に現る、ルナシー田園に死すあたりが思い付きます。そんなに映画好きではないので20個は全然思い出せないです。
ただ、こういうリストって以前に一度頭を捻って外向けにリストアップしたものが記憶に定着して再生されるだけで、実際に面白かったかどうかとは若干のずれがあるような気もします。

 

352.エロファボ博士のLW先生に質問です
先生はエロファボを評価する際に減点要素はありますか?(メガネをかけてたら減点、など)

あります。単純な好みとしてあるよりはない方がいい要素というのはどうしてもあって、眼鏡もそれ寄りではあります。
それはほとんど好みの定義だと思うのでだいたいの人にはあると思うのですが、ない人もいるんですかね?

 

353.女性Vtuberの定番ネタとして、萌え声配信に挑戦するけど結局「汚い」地声が出てしまうというくだりがありますけど、あれってなんだかんだ地声でも最低限の「綺麗さ」が保障されているからこそネタが成立してるみたいなところがありませんか?二次元美少女が行うセクハラ行為には不快感が無いみたいなアレです。

うーん、別に地声ってそもそも特に汚くはないんじゃないですかね? そういう意味で別にそもそもあまりヤバいものではないという話であればわかります。
(別にVtuberの萌え声ではなくても)女性って普段からある程度は作った高めの声を使っているわけで、それが外されたニュートラル状態に過剰にネガティブな印象はありません。そもそも「萌え声配信に挑戦する」という営み自体が結構謎で、普段の配信に使っている声だって明らかに地声ではないため、萌え声に挑戦するというよりは普段使いの萌え声からまた別の萌え声に挑戦するという方が正確です。
ちなみにこうやって僕が女性の地声周りについて知ったような口を利く背景には僕には女きょうだいがいるために成人女性の地声を普通に知っているという明確な知見のアドバンテージがあり、その点で女性の地声を知らないリスナー層の認識とはかなり乖離がある気はします。

それはそれとして、美少女の図像があるためにイメージブレイク的なパフォーマンスがカバーされているというのもまた真実だとは思いますが、それは地声に限らずVtuberの大前提ではあります。あともう一つ追記すると、僕はVtuberをキャラクターとして捉えたい派閥なので「Vtuberは腹から萌え声を出せ」を信条としており、地声ガチアンチです。

21/10/16 ウマ娘 プリティーダービー Season2の感想 ライスシャワーは何故いじめられたのか

ウマ娘 プリティーダービー Season2の感想

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2期は明確に1期より良かった。ライスシャワー周りのエピソードが良すぎた。それに尽きる。
2期7・8話のライスシャワーだけがウマ娘というコンテンツの裏面を描き、ストーリー全体にかかるチープさを正当化できている。俺にとってはライスシャワーの存在だけがアニメ版ウマ娘の評価を担保していると言っても過言ではない。

史実がチープさを正当化する

元々ウマ娘アニメはストーリーのメインであるはずのレース周りのドラマがかなり貧弱だ。
どのエピソードにおいても最終目標はレースの勝利しかなく、乗り越えるべき障害は骨折か故障しかなく、達成はリハビリとトレーニングを経ての復帰試合での勝利しかない。周囲の人間関係に多少のバリエーションは有りつつも、適切な解像度で捉えれば全く同じストーリーラインが多用されていることは端的に事実だ(サイレンススズカメジロマックイーントウカイテイオー×n……)。

しかしウマ娘に限っては、お話が単調だからといってただちにコンテンツが陳腐ということにはならない仕掛けがある。「いやでもこれ史実だから」という最強の弁解によって安い話の連打を正当化できるのだ。
つまり「さすがにトウカイテイオー故障しすぎじゃね」という無粋なアニメオタクに対しては、「トウカイテイオーが度重なる故障に見舞われたのは史実、現実にもそうだった」という反論ができる。それによって、かつて馬の方のトウカイテイオーが現実でそのような苦難を被ったことが(大抵の人にとっては仮想的に)想起され、ストーリーの完成度の話が現実における辛苦の話にすり替えられる。そうなると無粋なオタクも「一見すると単調なストーリーだが、実際にこういう出来事があって大変だったのだなあ……」としみじみしてしまい、美少女の方のトウカイテイオーの頑張りに感動してしまうという仕組みがあるわけだ。

擬人化ものや歴史人物ものが流行する昨今、現実世界の史実に立脚したキャラクターが登場すること自体は大して珍しくはないが、大抵はキャラクターのちょっとした性格や言動の一部に史実からエピソードが反映される程度に留まっている。アニメで描かれるストーリー自体の全体が史実をなぞっているというのはそれなりに珍しいアプローチの部類に入る(もちろん比較的稀というだけで、ウマ娘が唯一の例だと言っているわけではない)。

補足393:このアプローチが有効かどうかは、「キャラクターが人物をモチーフにしているかどうか」がとりあえず第一の分岐点になりそうだ。人物モチーフのキャラクターを史実通りに動かした場合、それは単に美形キャラクターで歴史教科書を再演するだけになってしまい、あまり面白そうな感じはしない。

その点、ウマ娘がストーリーをフリーライドさせる史実の元に競馬という題材を選んだことは慧眼というほかない。もともと競馬においてはファンは劇的なドラマを重視する傾向にあり当事者たちにとっては感動的なエピソードが色々あること、そして(競馬ファン以外は競馬史にあまり詳しくないので)それに美少女のガワを被せれば比較的新鮮なコンテンツとして提供できることを見抜いた企画者が有能すぎる。

このあたりで一応誤解を受けないように言っておきたいのは、俺はいま「現実における感傷を持ち込むことで質の低いストーリーを量産する悪質な手口を用いている」などとウマ娘を糾弾したいわけではないということだ。別にウマ娘は「全く新しいストーリーの数々をお見せしますよ」などと予告していたわけではないのだし、魅力の多くをストーリーではなくキャラクターに振っている美少女コンテンツとしては、ストーリーが単調であることは大きな問題ではない。このレベルで同じ話を無限に擦っているコンテンツは他にもいくらでもあるし、むしろ史実というエクスキューズを用意していた分だけ優れたアプローチと言ってもよい。

補足394:俺は今「物語の類型がたかだか有限個しかないことはプロップを引かずとも明らか、全く新しい物語を求めるよりは既知の物語をどう変奏するかという小手先の工夫の方がむしろ本質だ」みたいなことを一瞬書きかけたが、それはちょっと弁が立ちすぎているというか、本当は思っていないことを何となく手なりで書いているだけだなと思ったのでやめた。

史実は人が作るもの

俺がいま語りたいのは、ウマ娘のストーリーの背後で強力な後ろ盾となっている史実という制度についてである。

史実とはさしあたり現実に起きた出来事を因果的な連鎖によって結び付けたストーリーのことである。しかし一般に史実として想定される因果の連鎖は、科学的に厳密な意味での因果の連鎖とは水準が全く異なっていることに注意されたい。例えば「広島への原爆投下によって日本が降伏した」という史実的因果関係を、「水素分子二つと酸素分子一つが結合して水になった」という科学的因果関係と同一視することはできない。

何故ならば、史実とは現実に起きた出来事の系列をフラットに並べたものではなく、誰かが意図をもって構築するものからだ。史実の構成には必ず誰かの関心が作用しており、それ故に史実はそれを構築する主体を必要とする。
またしても誤解されそうなので慎重に弁解しておくと、ここで俺は「歴史とは本質的にアジテーションなのだ」などと主張したいのではない。政治的な云々を抜きにしても、史実は原理的に誰かがその手で構成する人工物以外では有り得ないのだ。少し言い換えると、観測者のいない世界に出来事の時系列は発生するが、史実は絶対に発生しない。史実に残すべき事態とそうではない事態の見分けが付かないからだ。
例えば「恐竜が絶滅した」というイベントが史実として認識されているのは、恐竜の絶滅に関心を持っている誰かがその出来事を無限の時系列の中から拾い出したからだ。世界に「恐竜の絶滅など屁が綺麗に出たのと同じくらいどうでもいいことだ」という価値観の人しかいなければその史実は構築されない。

補足395:本筋とそこまで関係ない割には長いので補足に回すが、現実における史実的因果関係と実験室における科学的因果関係が異なる理由を二つ挙げておこう。
一つには、単に現実の出来事は複雑すぎることがある。「誰かが何かを喋ったからそれが起きた」という単純な史実でさえ、科学的に厳密な意味で言えば、口を開いたから周囲の空気中の分子が移動して云々というものまで含まれてくる。他にも「誰かが会話を盗み聞きして得たアイデアが数年後に芽吹いた」とか、「本人も気付かないうちに身体がぶつかったことが後の因縁の一つになっていた」とかいうことは有り得るし、実際あるだろう。そういうもの全てを完全に拾い上げて正確な因果関係を構成することはできない(ちなみに「些末な出来事は取り上げる意味が無い」という反論はナンセンスだ。「何が些末な出来事か」を決定するのが史実だからである)。そうやって無数に起きていた事象から史実に編入する事象を拾い出すこと自体に恣意性が伴う。
もう一つには、史実に関与する事象は大抵が一回性の出来事であるために厳密な因果関係を立証することが不可能だということがある。ここで言う「厳密な因果関係」とは、形式的には「もしAが起きなかったのであればBは起きなかったであろう」の反実仮想のことだ。「広島への原爆投下によって日本が降伏した」という因果関係を立証したいのであれば、「広島へ原爆が投下されなければ日本は降伏しなかった」を示す必要がある(もしそうでなければ、日本の降伏は原爆投下とは無関係に生じていたことになる)。だが、何度でも実験を行える実験室とは違って、現実には「広島に原爆が投下されなかった日本」など存在しないため、それを示すことは不可能である。

「一定の関心の下で人為的に構築される」という史実の性質は、史実が娯楽として消費される競馬のような現場では顕著に際立ってくる。競馬においても「可能な限り面白く劇的な物語としてレースを捉えたい」という観客たちの欲求があって初めて、トウカイテイオーが故障して復帰して故障して復帰して云々という史実の構築が起こってくる。

よって、ウマ娘のストーリーが史実をなぞっているだけで感動的なものとして受容されていくことは二重の意味でむしろ必然的である。すなわち、一つには単純に多くの人々が娯楽のために構築してきた競馬史はそれ故に娯楽としての完成度が最初から高いこと。もう一つにはアニメにおいて競馬ファンが作り上げた史実を再演することはそれ自体が再構築として史実をより強固に承認していくこと。競馬がもともと史実を娯楽として消費していることを踏まえて、アニメ版ウマ娘はそこに乗っかる形でコンテンツを成立させたわけだ。

史実を妨害した罪

さて、現実と史実の順序について考えてみると、ふつうは現実は史実に先んじるし、史実は現実に遅れる。つまり現実に起きた事象を誰かが関心に基づいて適切に加工することで、事後的に史実が生まれる。
当たり前のことだが、トウカイテイオーが現実に故障したからトウカイテイオーの故障という史実が残ったのであって、トウカイテイオーが故障したという史実があったからトウカイテイオーが現実に故障したのではない。

だが、常に現実が史実の手綱を握っているとは限らない。ときには暴走した史実が現実から主導権を奪い取り、現実の方が史実に隷属する異常事態が発生する。これこそがウマ娘アニメで競馬ファンライスシャワーにやたら厳しかった元凶であり、ライスシャワーが聖域である史実の侵犯という重罪を犯してしまった所以でもある。

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ライスシャワー菊花賞に出走する時点で期待されていた「ミホノブルボンの三冠」とは、いわば「成立前に先行して公認された史実」である。本来であれば「ミホノブルボン菊花賞優勝」という現実が発生してから「ミホノブルボンの三冠」という史実が残るのだが、史実という娯楽に忠実な競馬ファンはその順序を逆転させてしまったのだ。
それは史実が一定の関心の下で人為的に構築されることを考えればむしろ自然なことではある。劇的な史実を求めてやまない競馬ファンにとって、「ミホノブルボンの三冠」というあまりにも完成度の高い史実は魅力的すぎた。この史実を作るために必要な現実はもちろん「ミホノブルボン菊花賞優勝」であり、それを用いて完璧な史実を完成させるのが彼らの関心である。よって、ライスシャワーがそれを阻止したことは史実成立の妨害に相当する。その罪は史実を愛する競馬ファンにとってあまりにも重い。

よって、7・8話でやたらライスシャワーに厳しい世界だったのは、突然皆がライスシャワーにだけ意地悪になったわけではないのだ。競馬ファンの態度はずっと一貫しており、娯楽として史実を求めているという態度の裏表に過ぎないのである。史実には現実を事後的に編纂するという表面と、現実に先立って期待されるという裏面がある。表面の史実を利用した娯楽として競馬が営まれてきた一方で、裏面の史実を侵犯したライスシャワーが激しいバッシングを受けるのも当然と言える。

ライスシャワーが一番かわいそうだったシーンであるところの冷え冷えウィニングライブは実に象徴的だ。
何度も言うが、史実とは歴史の当事者というよりは第三者が事後的に構築していくものであって、時系列を観測して編纂する外野が必須なのだ。ウィニングライブとはレースの勝敗という事実を史実の編纂者である観客に明示する機会であり、史実が構築される舞台そのものと言っても過言ではない。だからこそ、期待されていた史実を破壊してしまったライスシャワーはウィニングライブで観客から完全に拒絶されるのだ。

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ちなみにウマ娘がアイドル要素を捻じ込んできた合理性もここにある。史実同様、アイドルという制度もアイドル本人だけでは機能しない。アイドルを見てくれる観客がいて初めてアイドルはアイドル足り得るのであり、いずれも第三者を必要とする点で一致している。ウマ娘とは競馬史を構成するイベントの当事者であると共に歌って踊ってみせるアイドルでもあり、二重の意味で観客を求めている。この二つを綺麗に回収するウィニングライブは極めて優れた舞台装置と言える。

補足396:もっとも、最終的にはライスシャワーの勝利ですらもこうしてウマ娘のアニメとして消費されるように史実として残った。この事件がいわば「史実的ではなかったという史実」として回収されていくという捻れた構造がある。

まとめよう。

競馬においては一定の関心の下で人為的に構築される史実という制度が強力に作用しており、ウマ娘というコンテンツ自体がそれに立脚することで比較的チープなストーリーが正当化されむしろ感動的なものとして消費されてきた。しかしその一方、アニメ内では逆向きに作用した史実の成立を妨害したライスシャワーがやたら厳しく当たられる様子が描かれた。
競馬における史実という力学の二面性が認識され、コンテンツ自体がその表面を利用しつつもライスシャワーという裏面を妥協せずに描き切ったこと、最初から最後まで一貫してライスシャワーには厳しい世界を崩さなかったことは高い評価に値する。

21/10/3 お題箱回89:個人で作品発注できる良い時代etc

お題箱89

334.LWさんって音声作品を作りたいと思ったことはありますか?

無くは無いですが、モチベーションはそこまで高くないです。自分が作りたいであろう内容とそう遠くない同人音声作品がそこそこリリースされているので、手間と差し引きでわざわざ自分で作るほどでもない感じです。一般性癖の勝利です。

ちなみにここで言う「自分で作る」とはもちろん自分で声をあてるわけではなく声をあててくれる女性声優を見つけて仕事を依頼することを指しているわけですが、そういうムーブをとりあえず検討できる程度には発注が安価かつ簡単になったのはとても良い時代だなと思います。
ネット文化の発展による制作&発表環境の普及によってプロとアマの垣根が崩れた~みたいな話はボカロが勃興したくらいから散々言われてきていますが、それに伴って発注側のハードルもどんどん下がっています。僕を含めて自分自身でイラストを描いたり声をあてたりしない大抵のオタクにとっても、クリエイターの裾野が広がったことで礼儀とお金さえあれば個人依頼でコンテンツを作ってもらえるようになった恩恵は非常に大きいですよね。

 

335.人生の大きな目標がなんにもなくなってしまったので目先の楽しみだけを頼りに生きているのですが、『ゲーミング自殺、16連射ハルマゲドン』は本当に楽しみです。応援しています。(ちなみに、完全自殺マニュアルを読んでおいたほうが楽しめますか?)

ありがとうございます。僕も人生の大きな目標は無く目先の楽しみで生きる派です。今年度中くらいには投稿したい『ゲーマゲ』をよろしくお願いします。

完全自殺マニュアル』を読んでおく必要は特にないです(しかし割とすぐ読めて面白いのでオススメの本です)。すめうじもそうですが、美少女萌え娯楽ラノベにつき事前知識が無いとわからない衒学的な文章はあまり書かないように心がけています。

 

336.爆アド.comメンバーとは仲良いんですか(LWさんが遊戯王やってた時期的に同期?)

昔は仲が良かったですが、いつからか相互リムーブとなり完全に終わってしまいました。
別になんかエピソードがあるわけでもなく、何となくリムブロされて終了という感じです。年齢的にもプレイ時期的にも重なっていたので悲しいですが、知り合いや知り合いの知り合いにブロックされていることは割とよくあります。

LWのサイゼリヤは爆アド.comを応援しています。チャンネル登録はこちらから→

 

337.サイゼミに入りたいんですけど、その場合の要件とかってあったりします…?

特にないです。「門戸は開けておいてやべえやつが来たらキック」みたいな方針なのでリプライかDMをくれればdiscordに招待します。
ちなみに今は緊急事態宣言も明けたので次回サイゼミをやってもいいのですが、最近僕が数学書ばかり読んでいるため扱うコンテンツがあまりなくどうしようかなみたいな状態です。

 

338.映画版少女歌劇スタァライトを見られたようですが、アニメ視聴時点からの考えに違いはありますでしょうか

saize-lw.hatenablog.com

書きました!

アニメ放送版より大きく評価が上がり、「まあ面白かったコンテンツ」から一気に「人生に残るコンテンツ」に躍り出ています。主題的にもアニメ放送版は劇場版の布石に過ぎず、劇場版まで含めて真のコンテンツとして完成したという認識です。放送版が微妙で消化不良だった人ほど面白いと思います。

 

339.LWさんって今まで格ゲーの経験はあったんですか?
僕はブリジットで毎日シコってるのでブリジットが来たらGGSTで初めて格ゲーやってみようかと思ってます

10年前くらいにGGAC+をちょっとやっていました。
RAPまで買って自宅でちょいちょい遊んでいたんですが、当時はオンライン対戦もなかったためブリジットの6P始動対空エリアルとかソルのワインダーループが出来るようになったあたりでやることもなくなってやめました。周りにGGACをやっている人が特に誰もいなかったのが最大の敗因で、そもそも中高生の段階で周りで誰もやってない対戦ゲームを一人で本腰入れて始めようとするあたりに当時からソロプレイ体質を感じます。

僕もブリジットが一番好きなので当初は「DLCでブリジット来たらやります」と言っていました。が、ラムレザルのカルヴァドスが萌えというだけの理由で前倒しで購入しました(4:24~)。

youtu.be

今では周りは全員ストVをやっていますが、今のところ転向するつもりは全くありません。萌え豚なので女の子が可愛いことは最低条件である一方、アルカナハートとかMBAACCは萌えが露骨すぎて嫌という微妙なプライドがあって、今も昔もギルティギアだけが萌えすぎない萌えというギリギリのライン取りに成功しています。

 

340.4月消費コンテンツに書かれているトップをねらえ!について短くても良いので感想を読みたいです。

うーん、正直あまり思うところが無かったです。マトリックスジュラシックパーク然り、当時としてはテーマとモチーフが優れていたがそれ故に模倣されるのも早いパイオニア系の作品という印象でした。ちなみに僕はどちらかと言うと2の方が好きですが、チコのキャラデザが良いのとノノの「なぜならば!」が好きだからくらいの理由しか無いです。

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341.lw氏小説待ち望み界隈の為にもはてブの小説リンクを宣伝すべきだと思います

ありがとうございます。

これどういうことですかね?と思ってTwitterで聞いてみたら

342.昔lwさんがブログで書いた小説が埋もれているので時々宣伝したらいいのにという意図でした

こういうことらしいです。「昔ブログで書いた小説」となると、ひょっとしてだいぶ前に鬱病記事がバズってたブログのすめうじの前身の方ですかね? アレはあまり人様に読んで頂くことを想定したブログではないのでリンクは貼りませんが、気になる人は探してみてください。

ちなみにごく稀に書く二次創作は全部pixivに投げています。

www.pixiv.net

 

343.受験勉強って殆ど暗記ゲーじゃないですか?
例えば計算問題を何問も解いている内に12×12のような簡単な計算であれば計算せずに反射で出力できるようになるのと同様に、問題に対して解法を瞬時に出力できるようになるための訓練が受験勉強の大部分を占めていると思うのですが、かつて受験ガチ勢だったLWさんはどうお考えですか?

うーん、理想的には仰る通りですが、所詮は受験勉強程度の時間ではそこまでのレベルには至らないというのが現実であるような気はします。試験の作問者も色々考えて焼き直しではない問題を膨大な数生み出し続けているわけで、勉強時にそれを凌駕するバリエーションの網羅でもしていない限りは初見の問題に対応することは避けられません。

とはいえ、問題ごとへの解法そのものではなくても、問題のタイプを見てアプローチのタイプを暗記する訓練という程度の話であれば真実だと思います。例えば関数の大小が何たらみたいな問題なら「導関数を見る」「二乗項を作る」「平均値の定理を試みる」とか色々アプローチの手札があって、そのどれが良いかを選ぶ勘を磨くことで最終解法に辿り着きやすくなるとかそんな感じじゃないでしょうか。

東大に入る人でも精々そのレベルで、あらゆる問題に対して最初から解法を瞬時に出力できる人はほとんどいないと思いますが、それができる超人がいてもおかしくはないとは思います。

21/9/23 「白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか」延長戦

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「白上フブキは存在し、かつ、狐であるのか」延長戦

saize-lw.hatenablog.com

ありがたいことにこの前書いた記事(『フブかつ』)へのレスポンスとそれに触発された記事を貰ったのでそれについて書きます。
ちなみにキーラ氏は友人の師匠(?)で、稀にdiscordでコミュニケーションすることもある知り合いの知り合いくらいの方です。僕が今まであまり一貫性なくバラ撒いてきた文書も読んで頂いて発展的な御指摘を頂けるのは非常に嬉しいです。ありがとうございます。

文中でたまに引用される『Vだけど、Vじゃない!』(『VV』)というのは僕が以前に書いたVtuberを題材にした短編のことです。

kakuyomu.jp

こうして使うつもりで書いたわけではないですが、確かに言われてみれば僕のVtuberの設定に対するスタンスと認識がよく滲み出ていて、他でもVtuberの話をするときに「それVVじゃん」とよく言われるので読んで頂いても面白いと思います。

 

1.絶えず自壊する泥の反論集:インタラクティヴィティと論理的(不)完全性

keylla.hatenablog.com

『泥反』からの指摘は以下の4点です。わかりやすく番号を付けて頂いたので答えやすくて助かります。

  1. LW氏は、「正典に依拠する情報かどうか」と「公式設定かどうか」とを混同しているのではないか
  2. LW氏は、発言の信頼性と正しさとを混同しているのではないか
  3. LW氏は、フィクションがもつ時間と我々が持つ時間とを混同しているのではないか
  4. LW氏は、キャラクターが世界に所属するものという前提をとっているが、果たしてこの前提は我々にとって有益だろうか

全体的に、僕が「このあたりまでは厳密に書けるけど、ここから先は怪しくなるからバレないように誤魔化しておくか」と思ってお得意のレトリックで誤魔化した部分が看破されているというのが率直な感想です。
『フブかつ』に限ったことでもないですが、僕は普段から一貫性を最重視して断定的な論を立て、多少の違和感や不整合はレトリックや補足に押し込んではぐらかす傾向があります。これは恐らく理系出身者の悪癖であり、デメリットよりメリットの方が勝ると思っているので直すつもりは無いですが、これで騙されてくれない賢い友人からは「お前ここ誤魔化しただろ?」「ここ本当に思ってるか?」と突っ込まれて開き直ることが割とよくあり、今もそのタイプの状況に追い込まれています。

よって今から僕が行うのは「この指摘は論理的にどうこう」という明晰なレスポンスではなく、主にそうせざるを得なかったモチベーションの説明や、原因や代替案についての共有です。応答する言葉のレイヤーが当初の『フブかつ』とズレていて、全体的に一つ水準が高い楽屋裏的なメタトークになります。そのあたりの温度感はキーラ氏も正しく汲み取っており、「正当に排除されてきたトリヴィアルな状況への言及」「LW氏のとった前提のちょっと外側に位置する話をしよう」と仰っています。恐らくこれを言ったら泥仕合になるだろうという正しい予感が記事タイトルにも現れているのはいいですね(主に推論の論理的正当性を巡る反論ではなく、前提を破棄するタイプの反論なので)。

以下の内容は全て『泥反』を読んだ前提なので先に読んでおいてください。

 

1-1.LW氏は、「正典に依拠する情報かどうか」と「公式設定かどうか」とを混同しているのではないか

そうですね(上に前置きしたような事情により、以下のレスポンスは全て「そうですね」から始まる気がします)。

『フブかつ』でも若干触れましたが、これは恐らく文学界隈で言うところのいわゆる「信頼できない語り手」の問題だと思います。
一応雑に説明しておくと、読者に対して情報を発信している者が嘘や勘違いや精神疾患等の何らかの事情によって正しい情報を寄こさないために信頼できない状態のことを指します(なおキーラ氏の認識とは異なり三人称視点の地の文ですら生じることが知られていますが、「地の文かどうか」という話題は小説技巧的なものに過ぎずあまり重要ではないので省略します)。白上フブキの発言も正典だからといって信頼できるとは限らないため、ただちにその自供を公式設定と同一視することは問題があるという話です。
これは仰る通りで、特に僕は白上フブキが実際に存在する女の子であるという立場を取りたいので、なおさら彼女の発言に全幅の信頼を寄せることには問題があります(実際に存在する女の子は正しい情報を報告するとは限らないため)。実際、僕も白上フブキの報告が信頼できない可能性は考慮した方がいいとは思いつつも、そのレベルでの真理値の検証は困難であるという理由で諦めています。以下は『フブかつ』からの引用です。

とはいえ、これは決してVtuberに限ったことではないのであるが、ただちにここで問題になるのが、いわゆる「信頼できない語り手」の問題である。というのは、語り手が嘘を吐いていた場合、つまり虚構世界の実態と異なる報告を行っていた場合、何が真で何が偽なのかが全くわからなくなってくるということだ。わたくしはVtuberの発言は時に過去の発言を覆すことも含めて常に更新されていくと述べてきた以上、ここで都合よく白上フブキは絶対に嘘を吐かないと信じてしまうわけにもいかない。

一見すると、信頼できない語り手に関する話題は語用論に属する問題として棄却してよいように思われるかもしれない。すなわち、発話に嘘を含めるかどうかは純粋に言葉の使い方の問題に過ぎないため、我々の関心対象ではないという逃げの一手が打てると思われるかもしれない。しかし、今考慮しなければならない信頼性の問題は作者や演者ではなく虚構的存在者に紐付いたものである。第二節でも述べた通り、立場上わたくしが棄却できるのは演者の言語使用のみであり、キャラクターの言語使用においては立ち止まって検討しなければならない。

しかし、この問題をこれ以上深堀りすることは難しい。『シャーロック・ホームズ』でも語り手のワトソンは完全なる薬物中毒者で、記述の一切は彼の妄想の報告に過ぎないとしてしまうことは不可能ではないが、それは不毛な懐疑論というものだ。その極論とVtuberに固有の発話の自由さを同一視することがフェアではないことは承知しているが、最大限譲歩してVtuberが完全に信頼できる権威ではないということを念頭に置いた上でなお、常識的な判断によって一部の命題は自明に真であることにできるとしておこう。

一応、白上フブキの発言が信頼できない可能性についても考慮しうる代替案を二点挙げておきます。これらの主張は僕の目から見ても説得力が微妙なので『フブかつ』本文からは削除されましたが(説得力が低い弁明は何も言わないより相手を懐疑的にすることがよくあります)、泥以下のヘドロな選択肢として一応置いておきます。

まず一つには、「白上フブキを信頼できないと考えるインセンティブが特にない」という消極的な理由で白上フブキを信頼する選択肢があります。
これは文学における「信頼できない語り手」の技法的な使用例を見ることで一定の正当化が可能です。もともと「信頼できない語り手」という技法は、相当に特殊な小説でもない限りは、基本的には合目的的に用いられるものです。最も典型的には、小説の中盤以降で語り手が信頼できなかったことが初めて発覚し、そこで読者に「こいつのこと信じてたのに嘘だらけだったんかい」という若干メタな「オチ」を付けるために使用されます。更に「信頼できない語り手が本当は信頼できないこと」はいずれどこかで読者に対して発覚する必要があります。そもそも語り手が完璧に虚偽を遂行していれば読者が「こいつは信頼できない語り手だ」と気付くこと自体がなく、文学的な効果も生まれないからです。よって情報の不整合や他のキャラクターからの指摘等で何らかのぼろを出すことによって、「ああ、こいつは信頼できない語り手だったのか」と理解させる手順が必要です。
このように、「信頼できない語り手」は典型的には「語りは最初は読者に信頼されている→途中で信頼できないことが発覚する→それによって読者に驚きを与える」という計算された流れによって効果を持つ立派な技法のひとつであり、「特に何の意味もないが本当は全部語り手の妄想なのでは?」という読者からの懐疑は類似してはいますが、技法的な効果が見当たらない場合にそれを行う動機は特にありません。よって、文学批評的な立場から見れば「語り手が信頼できないと考えるインセンティブが特にない」という消極的な理由だけでも「語り手が信頼できる」と考える合理性があります。
とはいえ、既に勘付いていると思いますが、この主張に説得力がありません。まず、これはあくまでも小説技法として合目的的に構成されたコンテンツを考えた場合の話であって、白上フブキが実際に存在する美少女であると考えるスタンスとは全く相容れないものです。現実の嘘吐きは「相手に気付いてもらって劇的な効果を与えよう」などと考えませんし、仮に白上フブキが嘘吐きだったとしても彼女もその手の完璧な虚偽の遂行者と考えるべきです。更に言えば、百歩譲って仮に白上フブキの言動が上に述べたような文学的合理性を持つと仮定したとしても、彼女が信頼できない語り手である可能性は特に排除されません。何故なら、白上フブキというコンテンツは明らかに現在も進行している最中であるため、一年後の「ネタばらし」に向けてコツコツと信頼できない語り手を装っていることは十分に想定できるからです。

さて、第二の選択肢として、白上フブキの主張そのものは公式設定としては信頼しないが、それでも主張に伴って真と思われる副産物だけを抽出して信頼することが可能です。
具体的には、白上フブキが「お茶を飲みます」と言ったとき、「お茶を飲んでいること」は真と見做せなくても「白上フブキが『お茶を飲みます』と述べたこと」は真として良いと思われます。この路線で真と見做して良いと思われる命題は、キーラ氏が指摘しているような「~と述べた」以外にも実はまだ数多くあります。例えば、「(それが本当か否かを問わず)白上フブキには『お茶を飲みます』と述べる動機があったこと」「(それが本当か否かを問わず)白上フブキには発話の時点で『お茶を飲む』と思わせる意図があったこと」「(それが本当か否かを問わず)白上フブキは視聴者が『白上フブキはお茶を飲んでいる』と思うだろうと思ったこと」あたりは白上フブキが信頼できないとしても依然として真であるとして良いでしょう。つまり、白上フブキを信頼しない代わりに、白上フブキの発言から得る事実のレベルを一歩退却させるという対応です。
この方向性では依然として彼女本人の情報を入手できることは魅力的ですが、その代償は計り知れません。真理値を確定できる情報は彼女の発声に伴う動作・意図・動機くらいにまで縮退してしまい、彼女に関する形質的な性質や世界の情報の一切を諦めることになってしまいます。そしてこの路線が途方もなく退屈な最大の理由は、白上フブキに関する命題と話者に関する命題にそう大きな違いがなくなることです。というのも、白上フブキの演者をMさんとしたとき、白上フブキに関して得られる命題について「白上フブキ」を全て「Mさん」に自動変換しても同様の真理値分析が成り立ってしまうのです。つまり、「Mさんには『お茶を飲みます』と述べる動機があったこと」「Mさんには発話の時点で『お茶を飲む』と思わせる意図があったこと」「Mさんは視聴者が『Mさんはお茶を飲んでいる』と思うだろうと思っただろうこと」は全て真です。この事実自体がただちに白上フブキの存在までも演者の存在に帰すわけではないにせよ、わざわざ表立ってやる分析にしてはほとんど何も残らないほど消極的な解決策であると言わざるを得ません。

 

1-2.LW氏は、発言の信頼性と正しさとを混同しているのではないか

そうですね。実はサイゼミでも一番突っ込まれたのはこの部分でしたが、僕は皆さんが何に引っかかっているのかが最後までよくわからなかったので正直に言えば指摘を無視してそのまま書いてしまいました。が、『泥反』を含む『フブかつ』へのレスポンスを見るにつけ、僕が当たり前に持っていた感性が実は自明ではないことが原因であるようだということがわかってきました。

というのは、僕は我々人間と同じようなコミュニケーション対象として白上フブキが存在することをあまりにも自明に肯定していたということです。僕にとって、初配信における命名儀式の「信頼性」とは、フィクションの問題というよりはただ単に対人関係の問題であり、その背景には白上フブキは実際に存在するという存在論的感性があります。
少なくとも現実における対人関係の問題として見れば、「文章で紹介することよりも本人が申告する方が強力に指示を固定する」という主張は納得して頂けるように思われます。僕の背中に「こいつがLW」とかいう張り紙がベタっと貼ってあるのと、僕自身が「僕がLWです」と述べるのでは、極めて素朴な意味で後者の方が情報としてノイズが乗っておらず信頼できそうな感じがします。少なくともこの状況において「この人がLWであると信じる信頼ゲージが上がること」「この人がLWであるという情報の正しさゲージが上がること」はほぼ同時に生起し、かつ、その二つはあまり厳密な区別なく受け入れられます。僕は概ねこのようなニュアンスで「地の文よりも初配信の方が強力だ」と言っていたのですが、前提となる「Vtuberとの関係は対人関係と同様に考えて良い」という感性が共有されていなかったため話が通じなかったというのが真相のように思われます。

もちろんこれに関しては全面的に僕が悪いです。というのも、「Vtuberは我々同様に存在する」という感性を前提とするのは論点先取以外の何物でもないからです。ちなみにこの論点先取はもう少し前にまで遡ることができ、そもそも因果説を支える「企図」という概念が社会的な対人関係をベースにしていることに鑑みれば、この手の議論を行ってもよいと判断した段階で白上フブキの存在を何らかの意味では仮定していることになります。
更に自責を続けると、これは十分条件と必要条件のすり替えでもあります。本来、「白上フブキは存在する」という証明は①「xならば白上フブキは存在する、かつ、xであるので、白上フブキは存在する」という推論であるべきです。しかし、僕の論法は厳密に言えば②「白上フブキが存在するならばxである、かつ、xであるので、白上フブキは存在する蓋然性が消極的に高い(少なくとも白上フブキが存在しないということはない)」という結論を密輸入した誤謬を用いています。
とはいえ、僕はこうした理由によって僕の主張が論理的に破綻していたとして撤回するつもりは毛頭ありません。『フブかつ』内に書いた以下の留保でも自覚されているように、白上フブキが虚構世界に存在することの完全に積極的な立証はそもそも不可能であり、せいぜい部分的な証拠収集と消極的な立証によって段階的に正当性を上げていく以外の道筋はそもそも有り得ないからです。「しかじかの直観を認めれば部分的に正当である」という程度の括弧付きの納得で十分建設的だと考えます。

補足24:ただし、指示が有効で有りうることはただちに指示先の存在を意味するわけではないことに注意されたい(プログラミングに明るい読者はポインタ型変数の値がnullであるような場合を想像せよ)。それは白上フブキが虚構世界に存在することを認めるための必要条件であって十分条件ではないのである。わたくしは依然として白上フブキが虚構世界に存在することの完全な立証には成功していないし、正直に言えば、それは永久に不可能であるように思われる。

よって、この節で指摘されている僕の欠点については、僕はキーラ氏とは見解を異にしています。キーラ氏は「信じること」と「正しいこと」の混同という主観と客観のギャップに混乱の原因を見出していますが、僕が思うに、これは「仮にでもVtuberとの対人関係を認めてしまえるか」と「Vtuberとの対人関係を素朴には認めないか」という存在論的な感性のギャップであるように思われます。僕は「美少女キャラクターには何らかの意味で実際に存在していてほしい」というのはオタク共通の願いと感性であるように思っていたのですが、それが別に全然自明ではなかったというのが学びではあります。

ちなみにTwitterでの感想で「『フブかつ』は神の存在証明と同じタイプの議論ではないか」と言っている人を見かけましたが、それは言い得て妙だなと思います。原理的な不可能ごとを何らかの信仰に基づいて無理筋で擁護しなければならないという意味で似通った状況にあり、そもそも可能世界という概念自体がライプニッツが神学の文脈で創始したものですから、歴史的な経緯を辿っても源流は一致します。

 

1-3.LW氏は、フィクションがもつ時間と我々が持つ時間とを混同しているのではないか

そうですね。この指摘は楽屋裏ではなくステージで扱わなければならないクリティカルなものです。というのも、これだけは感性の問題ではなく、真理値関数の問題だからです。

まずは『フブかつ』で延々と行っていた真理値の議論をアップデートして、時間を考慮できるように進化させるところから始めましょう。命題の真理値を時間依存にすることは、関数に時間変項を埋め込むだけで可能になります。
一応形式的に復習しておくと、今まではf(存在者x,性質a)=「xがaである」という二変項関数についてxとaに様々な値を代入したときの真理値を検討していたのでした。例えば「『白上フブキは狐である』は真である」というような主張は、x=白上フブキ、a=狐としたとき、「f(白上フブキ,狐)=True」のように表現できます。
ここに新たに時間tを加え、g(存在者x,性質a,時刻t)=「時刻tにxがaである」とします。xとaの選び方によって、真理値が時間tに依存して変化することは珍しくありません。例えば、g(ソクラテス,呼吸する,B.C.400)=「B.C.400にソクラテスは呼吸する」は真ですが、g(ソクラテス,呼吸する,A.D.2021)=「A.D.2021にソクラテスは呼吸する」は偽です(wikipediaによればg(ソクラテス,呼吸する,t)はB.C.470<t<B.C.399で真、otherwiseで偽です)。この表記を用いてf(白上フブキ,髪の毛奇数)=「白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」をアップデートすると、g(白上フブキ,髪の毛奇数,t)=「時刻tに白上フブキの髪の毛の本数は奇数である」となります。
この際、ついでに世界変項wも付け加えておきましょう。もともと僕の立場が「虚構的に真=虚構世界で真」という直観を擁立していたことを考えると、どの世界で真であるかを表記できた方が都合が良いですし、時間軸がどの世界のものかも指定できて扱いやすいです。よって、h(存在者x,性質a,時刻t,世界w)=「世界wにおいて時刻tにxがaである」とします。我々の所属世界を「AW(Actual World)」、白上フブキの所属世界を「SW(Shirakami World)」とでも置くことにすると、h(ソクラテス,呼吸する,B.C.400,AW)は真です。

この表記を用いると、キーラ氏が提示する状況「例えば、2021年12月31日までは、白上フブキに髪の毛の本数の設定はなかったが、2022年1月1日に、白上フブキの髪の毛の本数が奇数だという設定が公式のものとなった、というようなシナリオを考えてみよう」は以下のように簡潔に表記できます。

h(白上フブキ,髪の毛奇数,2021年12月31日,AW)=F
h(白上フブキ,髪の毛奇数,2022年1月1日,AW)=T

同様に、『泥反』で提示されている「それがその世界における事実であるなら、白上フブキの髪の毛の本数は最初から奇数であり、これからも奇数である」という見解も以下のように全称命題で表記できます。

∀t,h(白上フブキ,髪の毛奇数,t,SW)=T

このように、AWとSWでは事態に関する付値の仕方が明確に異なっているのみならず、そもそもAWの時間軸とSWの時間軸の対応関係すらも不明であるため、真理値関数に時刻を導入した途端に性質に関する議論が破綻するというのが『泥反』の見解であるように思います。

ただし、これに対しては僕は真っ向から反論できます。キーラ氏と僕の間での大きな見解の相違は主に二点あり、結論から言えば僕の主張は「SWでの真理値も時間依存していること」と「AWでの白上フブキに関する命題は彼女自身の直接的な命題ではなく知識に関する間接的な命題であること」です。

まず第一には、僕が思うに白上フブキの設定はSWで時間的に変動するということがあります。これに関しては『フブかつ』ではそうとはっきり明記しないどころかホームズに関する議論と並べることで明確に誤解を招く書き方になっていたことを反省していますが、僕は白上フブキの髪の毛の本数は固定されていないと考えています。
何故ならば、真理値が時刻に依存しないと考える場合、白上フブキを我々と同じタイプの存在者であると考えるのが難しくなるからです。具体的に言えば、「白上フブキの髪の毛の本数は最初から奇数であり、これからも奇数である」という性質を認めてしまうと、「白上フブキは髪が抜けない(生えない)」というかなり顕著な存在論的性質を付加せざるを得ません。よって白上フブキに余計な性質を付与しないためには、髪の毛は抜け変わると考えた方が都合が良いです。若干不自然な状況ですが、ここでは議論の簡単のために「白上フブキは2019年10月10日は髪の毛が奇数だったが、ちょうど日付の切り替わり時刻で毛が一本抜けて2019年10月11日には髪の毛が偶数になった」という状況を考えましょう。これは以下のように表記できます。

h(白上フブキ,髪の毛奇数,2019年10月10日,SW)=T
h(白上フブキ,髪の毛奇数,2019年10月11日,SW)=F

このように僕はSWにおける真理値の時間依存性を認めます。よって「現実世界において2022年1月1日に白上フブキが生放送で髪の毛が奇数だと報告した」というイベントが起きたとして、それはその瞬間に対応するSWの時刻において真理値が確定したに過ぎません。よって、時間についても真理値関数の完全性を求めるのであれば、白上フブキが生まれてからの現在までのSWにおける全時刻について「y年m月d日h時m分s秒に髪の毛は奇数でしたか」という赤スパを送り続ける必要があります。ちなみに未来に関して真理値が確定しないことは真理値決定の完全性を損なわせません。それは未来の時点tでの値が欠けているからではなく、そもそも未来はtの定義域に含まれていないからです。

そして第二に、白上フブキに関する真理値はあくまでもSWで定まることであって、AWで定まることではないと考えます。AWで起こる変化は、あくまでもSWにおける真理値を知っているか否かだけです。
具体的に言うと、「2021年12月31日までは、白上フブキに髪の毛の本数の設定はなかったが、2022年1月1日に、白上フブキの髪の毛の本数が奇数だという設定が公式のものとなった」という状況で起きているのは、

h(白上フブキ,髪の毛奇数,2021年12月31日,AW)=Fかつh(白上フブキ,髪の毛奇数,2022年1月1日,AW)=T

ではなく、

2021年12月31日までは我々はh(白上フブキ,髪の毛奇数,2021年12月31日,SW)の真理値を知らなかったが、2022年1月1日にはh(白上フブキ,髪の毛奇数,2022年1月1日,SW)=Tであることを知った

です。AWにおける真理値、h(白上フブキ,髪の毛奇数,2021年12月31日,AW)もh(白上フブキ,髪の毛奇数,2022年1月1日,AW)はそもそも定まっていません。白上フブキはAWではなくSWに所属しているため、白上フブキに関する真理値関数の付値はw=SWのときのみ可能であり、AWでは値が付きません。それはx=白上フブキ、w=AWのときにhの値が欠落することを意味するため、一見するとAWの完全性を危うくするように見えますが、xの定義域をwで指定した世界に存在するものだけに縛ることで一応はその危機を回避できます(とはいえ、例えばh(白上フブキ,存在しない,t,AW)については明確にTrueを返すことが望ましく、これについては本来はもっと慎重な議論が必要です)。

以上の二つの見解をまとめると以下のようになります。
まず、SWにおいては白上フブキが存在している期間で全てのtについてh(白上フブキ,髪の毛が奇数,t,SW)が定まり、値はTかFのどちらかであり、一般には時間に依存して変動します。
次に、AWにおいては白上フブキが存在している期間かどうかを問わず∀tでh(白上フブキ,髪の毛が奇数,t,AW)は定まりません。代わりにAWで起きるのはh(白上フブキ,髪の毛が奇数,t,SW)の真理値を知っているかどうかだけです。真理値関数は入れ子状になり、正しい命題は以下です。

h(LW,h(白上フブキ,髪の毛が奇数,2022年1月1日,SW)=Tを知っている,2022年1月1日,AW)
=「AWにおいて2022年1月1日にLWは『SWにおいて2022年1月1日に白上フブキは髪の毛が奇数であることが真である』と知っている」

これが僕の正確な可能世界の認識ですが一点だけ補足します。ここまでは時間軸をAWとSWで共有しているように話してきましたが、一般には一致していなくてもよいです。AWで白上フブキの髪の毛の本数が奇数であることが判明した2022年1月1日はSWでは5041年13月99日であるとしても全く構いません。その場合、AWとSWにおいて以下の二つが真となります。

h(白上フブキ,髪の毛奇数,5041年13月99日,SW)
h(LW,h(白上フブキ,髪の毛が奇数,5041年13月99日,SW)=Tを知っている,2022年1月1日,AW)

もちろん、「AW歴2022年1月1日とSW歴5041年13月99日が等しいとはいかなる事態であるのか、そもそも別世界間での時間の対応関係はどうなっているのか」「逆行する時間軸を持つVtuberに対応できるのか」等、もっと詳しく世界間の時間軸の関係を掘り下げることは可能です。しかしそれはそのときやればいいとして、僕がここで明らかにしたいのは「AWにおいて起こる時間的事態とは単にSWの事態を知るか知らないかでしかなく、SWにおける時間的事態での真理値はそれとは独立に定まっている」という基本指針です。

何にせよ、この暫定方針が正しいかどうかも含め、世界間での真理値の時間依存性という観点でVtuberの意味論を掘り下げることは極めて有益であるように思います。というのも、古典的な分析哲学において持ち出されるフィクションはほぼ全てが時間的に凍結した静的な世界であるため、現代的なコンテンツを存在論的に捉える際にはどういう方向性でも必須のアップデートとなるように思うからです。

 

1-4.LW氏は、キャラクターが世界に所属するものという前提をとっているが、果たしてこの前提は我々にとって有益だろうか

そうですね。これはロジックというよりはモチベーションの共有ですが、この疑問に対しては僕は明確な回答を持っています。僕が思うに、キャラクターが別世界に所属するものとする前提のうまみは「美少女キャラクターが我々と同じような時空間的な存在者である」という前提を擁立できることであり、その点において極めて有益です。

確かにキャラクターを現実世界に所属していると考えることも全く可能ですが、その際に最大のネックになるのはキャラクターが我々とは異なるタイプの存在者であると考えざるを得ないことです。
というのも、僕はいま岩本町のカフェヴェローチェでPCのキーボードを叩いているというように時空間的な位置を占める物理的存在者ですが、キャラクターソングを歌うアイドルが現実世界に存在していると考えたとき、それは僕と同じような意味で時空間的な位置を占める物理的存在者であると考えることはできません(『泥反』の表現では「時空間に宙吊りになる」)。時空間的な位置を占めない存在者自体は珍しくなく、大抵の概念はそのようにして存在しています。「日本」「後悔」「正義」といったものは全て物理的オブジェクトとは異なる何らかの抽象的な存在者として存在しています(唯物論者は「これらは我々の脳内のどこかに存在する電子パターンとして確かに時空間的な位置を占めている」などと反論してきそうですが、それは一旦無視します)。

かなり大雑把に言うと、ここで問われているのは美少女キャラクターを「ソクラテス」「織田信長」「LW」と同タイプの物理的存在者と見做すか、「日本」「後悔」「正義」と同タイプの概念的存在者と見做すかという選択です。世界の選択もそれに準ずるため、美少女キャラクターの存在を巡って我々が取れる道は以下の二つです。

①美少女キャラクターは別世界に住んでいるが我々と同じ時空間的な位置を占める物理的存在者である
②美少女キャラクターは我々とは異なり時空間的な位置を占めない概念的存在者だが現実世界に住んでいる

つまり「現実世界」と「物理的存在者」が二者択一であり、どちらを取りたいかは完全に趣味の問題です。僕は①の方が夢があって望ましいため、意地でも①を正当化するための理屈をこねくり回しているということです。

逆に言えば、僕が本当に擁立したいのは「物理的存在者」の方であって、「別世界」の方は勝手に付いてくるオプションというか、この立場を取るならばやむを得ず説明しなければいけないオマケでしかないです。
よって、どこかの世界に住んでいること自体は実はそれほどこだわりたいポイントではありません。そんなにやる気がないときはキャラクター単独でもいいんじゃないですかという態度を取りますし、第三の道として「美少女キャラクターは我々と同じ時空間的な位置を占める物理的存在者であるが、特にどこの世界に所属しているわけでもない」という選択肢も無しではないです(ただ、そう書きながらやっぱり「時空間的な位置を占めるのにどこにも所属してないってどういうこと?」という気持ちになります)。

 

2.デットンは存在し、かつ、弟であるのか

keylla.hatenablog.com

こちらは『フブかつ』の特撮バージョンといった趣で、特撮キャラクターもVtuberと同じように設定が流動的に変わっていく中で、それに何らかの実在を想定するのであれば様々な情報元から来る性質の変動に対してどのような態度が妥当かを論じています。
キーラ氏も「『フィクションキャラの存在論』という話題が盛り上がることを望みます」と仰っている通り、こうして色々な分野でそこに特有のキャラクターの性質を元手にしてオタクたちが思い思いにキャラクターの存在論を立てていくというのはかなり面白い事態だと思います。そうなるといいですね。

僕とキーラ氏のキャラクターの実在と設定に対するスタンスは当初のモチベーションからしてかなり割れているため何かを付け加えるという感じでもないのですが、その相違は以下でまとめられています。

LW氏にはどうやら、キャラクターの実存とキャラクターの設定とをかなり近い位置で接着する(あるいは同一視する)という発想の傾向があるらしい。そしてなおかつ、時間軸上で発生する「設定の変更」という現象と「キャラクターの実際的あり方の変化」の間にも“必然的”つながりを読み取る。そして、「キャラクターの実際的あり方の変化」が(疑似的にだが)時間軸上で起こっているかのように感じ、これに驚く。こういった発想の傾向は『Vだけど、Vじゃない!』からも端的に伝わってくる。
私が素朴に受け入れている発想というのは、LW氏のそれとはだいぶ違っていて、「設定による記述とキャラクターの実際的あり方との間には多少の遊びがあり」、「設定の変更によって、(時間的に)ただちに指示対象のキャラクターが変化するわけではなく、記述の流動性に対してキャラクターの実在はある程度固定的である」というものである。公式サイトの記述が今日変わったからと言って、今日のキバーラが昨日のキバーラと別人というわけではない。

これは仰る通りだと思います。
さっき述べたように、僕には「何としてもキャラクターは我々と同じように実際に存在していると考えたい」というモチベーションが最初にあります(ちなみにそれは美少女キャラクターに対する執着に由来しています)。そこだけは絶対に譲れないので、その前提に合うように思考して論を立てるという制約を負っています。「設定は本当に別世界の事実を記述している」と考えざるを得ませんし、設定の変更についても別世界の事実が実際に変更されたとして「真に受けて驚く」という態度を取らざるを得ません。
それに比べればキーラ氏は大人なスタンスを取っていて、あくまでも現実世界ベースで「明らかに制作側が意思統一できていない」「明らかに制作側の表記ブレ」といった事態を率直に認めた上で設定にあそびがあるような記述の束でモデルを作っていくことを想定しています。それは緩やかに誤りを許容できるという点で非常に穏当な立場であり、相対的に僕の方が過激派であることは間違いありません。

21/9/11 お題箱回88:フブかつの一人称何?、悪の教典etc

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お題箱88

基本数ヶ月遅れで順番に回答しているお題箱回ですが、タイムリーなものは先に答えています。

 

324.初投稿です。白上フブキの文章を楽しく読ませて貰いました。LWさんはあれ程長大な文章を書き上げるのにどの位の時間を要しましたか?それと細かい話ですが、一人称が「わたくし」だったのは何故ですか?

ありがとうございます!!
この文章にはそれなりに魂が入っていて、個人的な総決算と言っても差し支えありません。最近Vtuberについての記事を書いていないのは、僕がVtuberについて言いたかった話はだいたい全部ここに書いてしまったからです。

saize-lw.hatenablog.com

時間は測っていないので具体的にはわかりませんが、手法と論旨は最初から決まっていたのでそんなに大変だった記憶は無いです。体感的には5000字くらいまでが一息で適当に書ける量、10000字が頑張らずに書ける限界、15000字以降は分割作業がマストになるくらいのイメージです。実際、普段のブログ記事もだいたい少なくて4000字から多くて10000字弱くらいまでの幅です。なので長めのブログ4~5本くらいの労力ということになりますかね? そう書くと結構多いような気もしてきました。

一人称が「わたくし」であることを含め、全体的にわざわざこなれていない直訳調の文体を選択したことにはそれなりの理由があります。ちなみに文体のコピー元はたまたま読んでいた『蜂の寓話』です。
最大の理由は、Vtuberという題材的に重箱の隅を突くような例外の指摘や揚げ足取りを受けることが予想されたからです。というのも、Vtuberカルチャー自体がもはや誰にも全体像を把握できないくらい薄く広く広がってしまっているので、少しでも油断して抽象的な論を立ててしまうとすぐに例外を持ち出されて「その論はこのVtuberには当てはまらないんですけど? 視野が狭くないですか?」みたいな攻撃を受ける可能性が高いです。それらを迎撃するためにはいつも以上に補足を多用して譲歩と再反論を何重にもかけておき、徹底的に防衛線を張る必要がありました。そういうまわりくどい保身をするのにはまわりくどい直訳調の文体が適していたということです。
他にも文の固さの落としどころというのもあります。いつもの「俺」か「僕」だと砕けすぎていて内容と合いませんが、かといって「私」だといよいよ論文みたいになってしまって読むのがしんどいので、改まってる風のギャグみたいな妥協案が「わたくし」です。あとはVtuberに関しての文章なので僕も少しくらいロールプレイしてもいいだろうという気持ちもあります。

 

325.美少女主人公アニメしか見ないLWさんがエヴァ視聴者なのちょっと驚きです どういった経緯で見られたのですか?

マジですか? 確かに一番好きなのは美少女主人公アニメですが、それ以外も普通に見ます。経緯というほどの経緯も特になく、有名なものは適当に見ます。コードギアスガンダムもぼちぼち見ています。

ちなみに僕のシンエヴァの感想(→)はリアルタイムでエヴァと人生を共にしてきたアラフォーくらいのヤバいオタクジジイの感想として「同世代」の皆さんに共感される形でネットに拡散していたのですが、僕とエヴァとの付き合いは5年くらいだと思います。エヴァ放送当初は物心付いていない可愛いキッズでしたし、ようやく見たのも大学に入ってからです。

 

326.ナショナリズムについて学ぶ際に触れとくべき文章のおすすめなどありますか?LWさんに感化され鑑賞作品を分析的に見ていこうとしたときに必須項目かなと思いまして

そう仰って頂けるのは嬉しいですが、ナショナリズムはあんまり思い当たるところがないです(僕がナショナリズムの話をガッツリしたことありましたっけ?)。
オタク界でナショナリズムと言えば大塚英志がパッと浮かびますが、それは飲み会での連想ゲームのようなもので、そんなにちゃんと参考にすべきものでもないような気もします。
もししたことが無ければですが、普通に高校世界史の勉強とかをするのがいいような気もします。僕もちゃんと勉強しようと思ってちょっと前に教科書会社で世界史の高校教科書とワークブックを三冊くらい買ったんですが、今のところ興味が他に移ってしまって積んでいる状態です。いつか他にやることが無くなったらちゃんとやります。

 

327.フレンチ?ってどうだったんですか?

今年のゴールデンウィークにオタク4人で15000円くらいのフレンチを食べに新橋に行ったやつですね。急な誘いに付き合ってくれたオタクたちありがとうございました。

僕は普段吉野家とか鳥貴族で全然美味しい人間なので価値観が変わるような衝撃を受けることを期待していたのですが、「まあかなり美味い」というだけでそれ以上のことは特にありませんでした。スタミナ太郎を0、安安を1、牛角を2、叙々苑を3とすればフレンチは順当に4くらいです。一人で行ってたら「この値段は高くね?」ってなってたと思いますが、複数人で行ったおかげで写真を撮ったりフォアグラで騒いだりして楽しめたので経験としては良かったです。

 

328.LWさんの経歴謎すぎる(いつ頃遊戯王始めたとか、どこの学科いたとか、いつ留年休学したとか含めて)

いつか自分の半生振り返る記事出して欲しい

興味を持って頂けるのは幸いですが、別に波乱万丈でもないですしそんなに面白くないと思います。むしろ割とテンプレ寄りの人生の気はします。

聞かれたことだけ全部答えると、遊戯王を始めたのは中学生のとき、学科は理科一類→工学部計数工学科システム情報コース→情報理工学系研究科システム情報学専攻、留年は学部四年時に卒論を断念したときに確定し、休学はそのときと大学院の二年目にしました。

 

329.悪の教典読みました!?
(読んで覚えてたら語って欲しい)

伊藤英明が主演の映画版は見ました。かなり好きな映画です。
サイコキラーvs生徒たちの攻防というアクションサスペンスみたいな体裁を取っている割には特に何も解決せずに普通にサイコキラーが勝利するのがいいですね。和製『ファニーゲーム』と言うとちょっと褒めすぎかもしれませんが、かなり近い位置にカテゴライズしています。

一番好きで何度も巻き戻して見たシーンは、生徒が放ったアーチェリーの矢と伊藤英明が放ったショットガンの弾が衝突するシーンです。あのスローモーション演出って明らかに何か奇跡が起こって運命が変わるときの劇的な逆転を意図しているのですが、この映画では形勢逆転は成立しません。全ての希望を託された矢はあっさり弾かれてそれで全部終わりです。この不条理さはファニーゲーム終盤での巻き戻しにも通じるものがあります。

ただ、伊藤英明が最後に精神疾患狙いのことをベラベラ喋ったあとに生徒がその意図を説明する演出は要らなかったです。伊藤英明が薄く笑ってそれで終わりで良くないですかね? そのくらいは説明しなくてもわかると鑑賞者を信じてほしかったです。

 

330.LWさんの異常性って具体的にどこら辺にあるんですか?

僕自身よりも僕と親しい人に聞いた方が詳しく言語化してくれる気がしますが、恐らく他人からの評価を行動基準に組み入れる能力が欠如していることです。これは「わかった上で気にしない」という性格の問題ではなく、「そもそも他人が自分をどう見ているかが理解できない」という認知の故障です。
ただ、このタイプの人間は別にそんなに珍しくもないです。実際、僕の周囲には明らかに類友現象で大なり小なりこの属性を持つ人間が集まっています。定義上この手のやつは異質な人間の声を聞く能力は絶望的に低い一方、同じ傾向性を持つ人間の声だけは辛うじて検出できるので、集団の同質性が高くなる傾向があるような気がしています。

 

331.虫の小説を読ませていただきました。それぞれのキャラで思想や信念が一貫しているため、敵味方が入れ替わっているのに違和感がなく展開していって素敵でした。
質問なのですが、小説を書いている最中に「キャラが勝手に動き出す」という感覚はありましたか?

ありがとうございます!! 素敵なすめうじをよろしくお願いいたします。

kakuyomu.jp

「キャラが勝手に動き出す」という感覚自体がよくわからないですが、よくわからないということは多分勝手に動いてはいないのだと思います。

基本的に僕は「最終的にこのシーンは絶対に作る」みたいな目標地点を最初に決めていて、あとはそこに辿り着くようにキャラの行動とか状況を逆算してパズルを埋めるような感じで書き進めていきます。
例えば白花が群体に分解されるシーンは絶対にやることが決まっている→誰かが白花を四肢切断しないといけない→誰かが白花を殺したがっていないといけない→登場済みのキャラで白花を殺したくて四肢切断できるキャラはいるか?→いればそいつが動ける状況を与える→いなければ新しく作って出す→……みたいな感じです。逆算の過程で誰かがちょうどよく動いてピースを嵌めてくれると楽なので嬉しいですが、多分それは勝手に動き出すとは表現されません。全部書き終わってからでないと投稿できないのも、パズルを埋めるためにピースを遡って変形させることがかなりあるからです。

 

332.サイゼミ受験業界回マジですか?
部外者だけど参加したいです

すみません、これは自分の影響力考えて発言してください案件なのですが、受験回が開催される可能性は高くないです。というのも僕自身にはそこまで受験回で喋るモチベーションがないからです。現役で学校関係者の友人が一番詳しくて喋る内容を持っているので、彼がやるならあるかもくらいの感じです。僕も彼がやってくれるならその話はかなり聞きたいです。

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ちなみに現在は僕の心がコロナ禍で折られたことによってサイゼミは一時閉店状態になっており、東京の病床がある程度確保されるくらいまでは再オープンしない気がします。

 

333.総合格闘技に関して書いてみてほしいです

うーん、総合格闘技には全然詳しくないですね……マジで格闘漫画(主にバキと喧嘩稼業)の知識くらいしかないです。なんか昔のオタクはドルオタとか鉄オタとかに並ぶオタク先として格闘技はメジャーなものの一つだったようですが、最近はどうなんでしょう。