LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

21/3/7 2021年1月消費コンテンツ

2021年1月消費コンテンツ

2020年秋アニメの感想は別記事で書いてしまったし、正月周りの休みでゴロゴロして消費ペースが落ちてしまったので今回は内容に乏しい。やはり働いていた方がコンテンツ消費のペースを保ちやすい。

未だに読んでいる途中なので消費コンテンツには入れていないが、2021年1月はアニメを見る他には向井雅明『ラカン入門』をよく読んでいた。

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:向井 雅明
  • 発売日: 2016/03/09
  • メディア: 文庫
 

難解で知られるラカン理論を適切な密度とトピックで解説してくれており、レベリング系コンテンツのお手本のような手ごたえがある(それ自体がそこまで面白いわけではないが、他の活動に対して基礎的な力を提供してくれるもののことをレベリング系コンテンツと呼んでいる)。ラカンがやたら大量に繰り出してくる、繋がりがあるような無いような個別のトピックを結び付けることに意識的なのがありがたい。
ただ、電子書籍で買ったのは失敗だった。これはもともとkindleを買った頃にセールで売っていたものだ。表紙のオシャレさと文庫という肩書的に薄めの新書くらいのバーチャルイメージを幻視して購入したのだが、完全に見誤った。内容の密度が高すぎるし、ラカン特有の意味不明な図式も総動員して説明を試みるためにページを行ったり来たりする必要がある。
今は何とか前期ラカンまで読んだが、続きは時間のあるときに図書館で紙媒体を借りて読もうと思う。

メディア別リスト

映画(5本)

ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝
ポセイドン・アドベンチャー
スタンドバイミー
がっこうぐらし(実写)
快楽の漸進的横滑り

アニメ(111話)

おちこぼれフルーツタルト(全12話)
戦翼のシグルドリーヴァ(全13話)
くまクマ熊ベアー(全12話)
ご注文はうさぎですか?第三期(全12話)
安達としまむら(全12話)
魔女の旅々(全12話)
ヴァイオレットエヴァーガーデン(全14話)
レヱル・ロマネスク(全12話、5分アニメなので実質2話換算)
アサルトリリィ(全12話)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

魔女の旅々
アサルトリリィ
おちこぼれフルーツタルト
戦翼のシグルドリーヴァ
安達としまむら

消費して損はなかったコンテンツ

くまクマ熊ベアー
ヴァイオレット・エヴァーガーデン

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

ご注文はうさぎですか?第三期
レヱル・ロマネスク
がっこうぐらし(実写)

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

ポセイドン・アドベンチャー
快楽の漸進的横滑り
スタンドバイミー
ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝

ピックアップ

2020秋アニメ

saize-lw.hatenablog.com

女性主人公の美少女アニメが画期的に多い良い期だった。体感的には一年半に一度くらいこういうボーナス・アニメ・シーズンがある。魔女の旅々とアサルトリリィは二期以降にも期待しているが、他のアニメはまあもういいかなという感じではある。

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン

saize-lw.hatenablog.com

俺の「最悪でした」という感想に対してTwitterで「わかる」「ほんまそれ」みたいな賛同の声なき声(空リプ)がFF外からもぼちぼち上がっており、まあ俺だけじゃないよなという感じでした。

 

がっこうぐらし(実写)

saize-lw.hatenablog.com

アニメ版と漫画版の感想を書いた流れで一応見ておいたが、概ね同じ話で特に発展のないタイプのメディア変えだったと言わざるを得ない。ゾンビたちを彼女ら自身と同一視する視点がアニメ版にしかないとわかったのは収穫ではあるが、がっこうぐらしというコンテンツ自体これ以上伸びしろも無いだろうから、どこかで活かされるかどうかは怪しいものだ。

 

レヱル・ロマネスク

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道の駅の隅っこにあるブラウン管テレビで流れている地元紹介VTRみたいなアニメだった。美少女を集めた割には特にお色気イベントもないあまりにも穏健で退屈な内容は、まいてつコラボがR18の壁を乗り越えられず町おこしを挫折した過去を踏まえての安全策なのかもしれない。
とはいえ、レヱル・ロマネスクというリニューアルしたIPで改めて九州の町おこしをリベンジするというわけでもないらしい。代わりに音声作品を大量販売してDLsite起こしをやっているようだが、レヱル・ロマネスクの明日はどっちだ。

 

快楽の漸進的横滑り

快楽の漸進的横滑り(字幕版)

快楽の漸進的横滑り(字幕版)

  • 発売日: 2019/11/01
  • メディア: Prime Video
 

精神分析ぽいタイトルだなと思ったらやはりその手のうまぶり映画ではあった。つまりシュールとか前衛的とか言われてカルトな人気を集めがちな映画、具体的には『アンダルシアの犬』『イレイザーヘッド』『天使のたまご』みたいなもの、実はやっていることにはあまり大差のない映画の中の一つだ。
プロットよりもイメージを優先した映像表現について、「シミュラークル」とか「シニフィアンの連鎖」とかそれっぽい概念をあてがってわかったつもりになることは容易いが、それは感想としては空虚で何も言っていないのに等しい。提示される映像の形式について述べたものでしかなく、どの作品に対しても同じことが言えてしまうからだ。
とはいえ、明らかに直接的な文脈を欠いたイメージの提示に対して実質的な意味を充填するのもそれはそれで個人的に記号を解釈する営みでしかないから、映画そのものというよりは個々の関心を語ることに帰着されてしまう。それはそれでかなり面白いことではあり、実際、俺も『イレイザーヘッド』のシーンのいくつかには「とてもよくわかる」という感想を持つし、そういうシーンは叙述的なストーリーが優れた映画のシーンよりも印象に残ることが少なくない。

そんなわけで、この手の映画に対して俺が持つ「イメージの表層的な快楽ってこれとして提示されるものではなくて、漸進的に横滑りして示唆されるだけだよね」みたいな感じをタイトルがはっきり指摘していたのにはグッと来た。ちなみに内容は別に全然面白くなかったし記憶にも残らないと思う。

 

21/2/28 お題箱回:宗教学、鬱、留年etc

 お題箱78

238.2年前の記事ですが、『ゴジラシリーズと新海誠作品の宗教理論分析』を拝読させていただきました。大変面白く、宗教学に興味を抱いたのですが、初心者にお勧めの文献を紹介していただけないでしょうか。

ありがとうございます。これですね。

saize-lw.hatenablog.com

上の記事にも書いた通り、これは宗教学の講義で書いたレポートです。

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僕が宗教学で一番興味深いと思ったのは「宗教の定義とは」「宗教の本質とは」みたいなタイプの議論です。宗教学では学の名を冠する対象が未だにはっきり画定されておらず、論者によって主張はまちまちです。例えば宗教の本質を社会的連帯機能に見る人もいれば、全く逆に内的な神秘体験に求める人もいます。その定義論争にかこつけて様々なバックグラウンドを持つ論者が様々な側面から宗教を論じているイメージで、諸々のロジックを把握して「確かに宗教ってこういうことあるよね」「この論者の思想で言えばあの現象も宗教的かもしれない」みたいに分析ツールとして使っていくのが門外漢としては最も有益な利用法のように思います。

ただ、僕は主に書籍ではなく大学の講義(教授の板書や口頭)で学んだので、初心者にオススメの文献はあまり思い付きません。もちろん『プロ倫』とか『金枝篇』みたいないわゆる基本文献と呼ばれる書籍はありますが、それは研究対象であって入口に手頃な本では全くありません。

宗教学の名著30 (ちくま新書)

宗教学の名著30 (ちくま新書)

 
岩波講座 宗教〈第1巻〉宗教とはなにか

岩波講座 宗教〈第1巻〉宗教とはなにか

  • 作者:鶴岡 賀雄
  • 発売日: 2003/12/12
  • メディア: 単行本
 

もっと良いものがあるかもしれませんが、手堅い本は島薗進『宗教学の名著30』とか岩波講座の『宗教とはなにか』あたりでしょうか。いずれも著名な宗教学者たちが書いており、宗教という概念そのものや定義にかかる問題を大枠で扱っているので問題意識がわかりやすいです。とはいえ、これらは哲学や思想の流れについてある程度は知識がある学部生向けで前提知識の説明が弱いのと、基本が各論で体系化志向が薄いため記憶に残りづらいという問題もあります。まえがきや各章の出だしで雰囲気だけ掴んで、サッと流し読みしたあとは本屋か図書館でもっと軽めの本を探した方がいいような気もします。

また、以下は完全な私見ですが、僕みたいな門外漢が宗教学に触れようとしたときにパッと見は面白そうだけど実際にはあまり面白くない罠的な論が二タイプあるような気がしています。

一つは、各宗教ごとの歴史や設定を辿る資料集みたいなやつです。ナツメ社がよく出してる「図解雑学 キリスト教」みたいな本に載っている内容、例えば旧約聖書新約聖書の違いとか、仏の名前と種類の一覧とか、その手の個別的な知識の収集に終始するような勉強はあまり面白くない気がします(宗教関連の小ネタに詳しいオタクにはなれるかもしれません)。もちろん必要に応じて参照した方が良い内容ではあるものの、それはやむを得ず行うレベリングみたいなもので、そればかりやっても仕方がないという印象です。

もう一つは、オタク文化現象をダイレクトに研究しているものです。ちょっと前に流行った「聖地巡礼ブーム」とか「神様擬人化ブーム」を宗教学的に捉えるみたいなやつは一定数ありますが、「宗教現象に若干似ている」ということを書いているだけであまり踏み込んだ解説をしないという印象です(宗教現象の周縁サンプルとして関心があるだけでオタク論ではないので)。むろんこれは僕の不見識である可能性も十分にあるので、この手の学術的な文献で面白いものを知っている方がいれば教えてほしいです。

 

239.本棚公開して❤️

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本棚自体は部屋に5つあるんですが、どれも列が多い上に分散して置かれていて全部撮影するのは諦めました。
僕は基本的に書籍は買わずに図書館で借りるので、読んだ本も読みたい本も本棚にはなかなか置かれず、そこまで本棚が関心を反映するわけではありません(積読も一切やりません)。本棚に並ぶのは図書館に無くてやむを得ず購入した本とか、人から貰った本とか、例外的に長期に渡って参照する本とか、珍しく新刊で読みたかった本とかです。

 

240.エヴァ新劇って今からでも見る必要ありますか?

僕はエヴァはテレビ放送版と旧劇だけ見ればよいと思うタイプですが、新劇もどうせ一日で見終わる量しかないので見た方がいいと思います。

 

241.その割には殆ど武装錬金に言及してなくないですか…

「その割には」の「その」ってこのツイートですかね?

武装錬金に限らず、僕の中では傑作だけど特に言及したことのない作品は結構あると思いますが、僕は好き嫌いはあまり積極的に発信する方ではないというような気がします。

 

242.薬以外の鬱対策って何かやってますか?

環境を変えることです。
僕は向精神薬がほとんど効かず、結局それしか効果が無かった気がします。主治医と「この薬は効かないすね」「じゃあこっち試してみようか」みたいな感じでかなり頻繁に薬や量を変えて全部で10種類くらいは飲んだ気がするのですが、「これは来た!」みたいな薬は特になかったです。夜とかにマジでヤバくなったときの緊急用に頓服で飲むやつは流石にちょっと効きましたが、中長期的にはピンとくる薬は無かったです(とはいえ薬を飲んでいなければもっとヤバくなっていたというか、悪化させなかったことに薬の効果があったという説はあります)。

症状が回復するのは長期休みとか休学で全ての元凶であるところの大学から離れることだけで、それをすると割とすぐ回復してました(ちなみに一般的には院生には長期休みは無いようですが、僕は「8月と9月は研究しません」と教授に宣言して一人だけ勝手に長期休暇を取っていました)。恐らく僕の問題は鬱病というよりは適応障害であり、適応できない環境が直面した場合に症状が抑うつ状態として発現するというのが真相であるような気はしています。

 

243.人生然り、オタク然り、終着点の見えない作業って不安になりませんか?(もしくはLWさん的には終着点のある作業ですか?)

ならないですね。昔はそういう感じもあったんですけど、最近は今の状態が1000年くらい続いても別にいい心境です。むしろ終わらない方がいいみたいな……

就職したあたりからいよいよ本格的に吹っ切れて、一定の終着点を目指して線形発展していくような人生のイメージから解放された気がします。確かに知識とか筋肉を蓄積することは好きですが、それはその運動が自己目的化しているだけで別に目標のある積み立てではないので、終着点の完璧な状態と比較して達成度を計るようなものでもないです。

 

244.ブログ書いて❤️

245.もっとお題箱消化して❤️

246.もっとブログ書いて❤️

247.もっとお題箱回答して💌

248.そろそろLWさんの記事を摂取したい

他の活動に支障をきたさないようにブログ更新は週一が上限という縛りを設けていますが、下限は特にないのでそれ以上遅れることは有り得ます。ちなみに読者の意向によって投稿ペースが変わることはあまりありません。

 

249.留年で心が壊れそうなんですけど、おすすめの対処法ないですか

逆に留年に心が壊れる要素ありますか?

「留年できなくて心が壊れそうなんですけど」みたいな投稿なら「お気の毒に」とかかける言葉もありますが、そもそも留年することは問題ではないので対処しなくていいです。僕は浪人や留年や休学や退学について「しなければ良かった」と思ったことは一度も無いですし、逆にストレートに歩んでいれば僕の人生はもっと貧相なものになっていたという恐怖があります。何度人生をやり直しても留年したいです。

サブスクの普及で娯楽の費用対効果が急降下するこの御時世に暇を持て余すということもないでしょう。本も映画もタダみたいな値段でいくらでも見られますしもちろん勉強してもいいです。何をしていてもストレートより一年多く経験を積めるわけですから、留年はアドバンテージでしかないです。

ただ、学費や生活費等の金銭的な問題については親に金を出してもらうとか色々クリアできないと厳しいという説はあります。国立大学は最初から年間学費がめちゃ安かったり休学の申請をすれば支払いが免除されたり色々噛み合いますが、そのあたりの事情は人によって千差万別なので何とかしてください。

 

250.LWさんが書くような考察系(分類をうまく言語化できません、すいません)のブログやnoteを読んでいると、高く評価されている記事も含め、大抵が長々と理論を喋り倒したあと、最後に結論を持ってきているように見えます。
これは、ビジネスにおいて優れていると言われるドキュメントとは真逆をいく方式だと思うのですが、界隈ではスタンダードな手法なのでしょうか?
あるいは、前半の感想が私の見当違いでしたら申し訳ありません。

結論と過程のどちらに関心があるかの違いだけだと思います。ビジネスで優れたドキュメントは「結局何を提案・主張するのか」に力点があるので「我々はAプランで進むべきだ!」みたいな結論をドカーンと持ってくるのですが、アニメの感想とかで「サムライ8は思想が古い!」みたいに結論をドカーンと言っても「ほうほう、その心は?」みたいな感じになると思います。結論を先に書いてもいいですが、主な関心があるのはそこではないというだけのように思います。

ちなみに仰っている「界隈」というのがどこを指すのか僕には全然わからず、手法のスタンダードさについても同様です。リンクの貧弱さからも明らかなように僕には所属する界隈もなく単騎でブログを書いているような自己認識です。

 

251.最近は新しいカードゲームが誕生しては速攻で消えていますが、ゲートルーラーは数年単位で生き残れると思いますか?
それからゲートルーラーの感想も聞かせて欲しいです。

252.ゲートルーラーレポ希望。商法や関係者云々ではなく主にゲームデザインの面で。

書きました!

saize-lw.hatenablog.com

ちなみにゲートルーラーに限ったことでもないのですが、お題箱は回答ペースに対して投稿ペースが早すぎて基本数ヶ月前の投稿にようやく答えているような状態なので、回答までに時差があります(お題箱に投稿が来た時点では僕はゲートルーラーの記事を書いていなかったということです)。

 

21/2/21 2020年12月消費コンテンツ

2020年12月消費コンテンツ

まだ2020年から抜け出せないのか!?

メディア別リスト

映画(6本)

帝都物語
ブレージングサドル
ダーケスト・マインド
チャーリーとチョコレート工場
マッドマックス4 怒りのデスロード
アーチャー 地獄のデスロード

書籍(2冊)

フィクションとは何か
フィクションの哲学

ゲーム(1本)

ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団

アニメ(12話)

Vivid Strike!(全12話)

漫画(28巻)

鬼滅の刃(全23巻)
アンサングシンデレラ(全5巻)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

鬼滅の刃
フィクションとは何か
フィクションの哲学
ダーケスト・マインド

消費して損はなかったコンテンツ

ブレージングサドル
チャーリーとチョコレート工場

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

Vivid Strike!
アンサングシンデレラ
マッドマックス4 怒りのデスロード
アーチャー 地獄のデスロード

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

帝都物語
ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団

ピックアップ

鬼滅の刃

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以前15巻くらいまで出ていた頃にも軽く内容を把握するために流し読みしたのだが、今回全巻一気読みしたときの方が明らかに面白かった。その勝因としては、「もう社会現象だし流石にちゃんと読んどくか」と思ってコマの隅々まできちんと目を通したりあとで忘れそうな伏線はメモを取ったりしていたことがある。漫画に限ったことでもないが、コンテンツは気合を入れて消費した方が面白い傾向にあるのは間違いない。

見ればわかる中心的なテーマとして「相続」があり、血統主義ではないにせよ世代間の受け渡しに過剰な意義を見出す姿勢は細田守を思い出すほどだ。第一次近似として乱暴に言ってしまえば反リベラルというかわりと保守的な世界観だと思うが、その古めかしさは大正という時代設定とよく噛み合っている。
相続の重要性を表現するため、柱が鬼と戦うのは基本的に一度限りとしているのはなかなか気合が入っていた。個が強い鬼と対比して群として強い鬼滅隊を描くためには、柱の一人一人が無双できるほど強くては都合が悪い。だから柱たちは戦うたびに普通に死んだり後遺症を負ったりして脱落する必要がある。シビアなゴア表現が鬼滅隊の存在意義に説得力を持たせる仕掛けとして活かされているわけだ。
また、相続の力を描くに際して印象に残っているシーンとして、中盤で自信のない鍛冶屋の子供に対して炭治郎が「君には無理でも諦めなければ君の子供や孫が成し遂げるかもしれない」みたいな声をかけていたところがある。それは冷静に考えればかなり残酷な発言で、ほとんど「お前には無理だ」と言っているのに等しい。将来的に相続によって実現する達成のために個人の達成を埋却するという覚悟が見て取れる。

ただし、本当に個人の人生を潰して家族的な繋がりへの貢献に全てを帰そうとすると、それはそれで魅力のない家父長制に陥ってしまう(サムライ8にはそういうところがあったというのは以前にも鬼滅と比較して書いた→)。もっと局所的な「思いやり」や「優しさ」が並走することは、個人の抑圧を回避するロジックとして機能している。「繋がりを支えられる一人前の男になる」というマチズモ的文脈を徹底して追放し、「緩やかな共感によって繋がりを維持する」という気持ちベースの連帯を描いているのがそれである。個々人の大きな文脈への接続が、直線に長く伸びるレールを鳥瞰するのではなく、せいぜい局所的な接合が連続するチェーンになっているという比喩でイメージが伝わるだろうか。
特に炭治郎が初期には義勇や鱗滝や錆兎といった男らしい男である面々から優しさを糾弾されたり「冷徹であれ」「男であれ」と怒られたりしまくったにも関わらず、一向にスタンスを変えずに鬼を気遣い続けた。「生殺与奪の権を他人に握らせるな」という台詞に象徴される厳しさは、炭治郎が棄却していくための踏み台として配置されたように思われる。

容易にマチズモを呼び込む規範的な大義を排除するため、敵についても常に情状酌量の余地があるように描かれているが、かといってそれをアメコミのように「善悪は立場の問題でしかない」「敵には敵の正義がある」と解釈するのもあまりしっくりこない。というのも、鬼滅の鬼はあまり大局観のない悪行をこなす割と素朴な悪だからだ。彼らが正義のオルタナティブであるような強い信条を持つようにはあまり思われない。鬼には「世界はこうでなければならない」という「彼らなりの正義」はあまりなく、せいぜい「世界にこうあってほしい」という「彼らなりの事情」があるくらいでしかない。
「鬼には思想はなく境遇しかない」ということを象徴するのが、最終盤での炭治郎の鬼化ではある。炭治郎は信条的には鬼になる理由は全く無いのだが、清貧な生活を送っていたというだけの理由で鬼になるポテンシャルがあるのだ(炭治郎は11巻で「俺が鬼になったら殺してくれ」みたいなことを言って自分が鬼になり得ることを予見している)。禰豆子の唐突な鬼化解除にも全く同じことが言えよう。

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フォロワーが言ってたこれはマジでそうで、禰豆子を取り巻く環境には若干の関心がある一方、禰豆子という一人の人間にはほとんど意識が向けられなかったような印象がある。敵サイドは掘り下げるべき悪い境遇が豊富にあるが、主人公サイドにはせいぜい「貧乏だったこと」と「鬼に襲われたこと」くらいしかないので、あまり語りたいことがないかもしれない。「自分とは?人生とは?」みたいな実存について一生ウダウダやってるセカイ系みたいなオワコンとは感性が異なることを感じざるを得ない。

特に「信条の無さ」としての敵を追求したのが無惨で、少年漫画のラスボスとしては稀に見る魅力の無いキャラ造形にはびっくりした。鬼滅を読む前に「無惨は子供達には全く人気がない」というようなツイートを見たときは「今の子供はDIOとかクロコダイルみたいなヴィランをもう好まない世代なのかしらん」などと思っていたが、そういう話ではないことがわかった。ただ単に、無惨には悪のカリスマが全く無いのだ。部下には徹底してパワハラを働いてるだけで、部下は怯えっぱなしだし会話も通じない。
無惨の空虚さを象徴するのが「しつこい」から始まる演説で、アレは本当によくできている。普通少年漫画では最終局面でラスボスと改めて対話するシーンでは主人公とラスボスがそれぞれの信条をぶつけ合って立場をはっきりさせつつ戦う理由を再確認すると相場が決まっているのだが、無惨には炭治郎にぶつけたい信条が一切ない。代わりにあるのは生存にかかる不快感だけだ。価値観が一致しないことへの断念ではなく、生存上の利害が一致しないことへの不快感を延々と述べるだけという異様な対話によって、もはや交渉の余地なしとしてラストバトルへと突入するシーンが見事。あの演説までは無惨も「実は何かあるボス」ではないかと疑っていたのだが、あのお気持ち表明ではっきり「マジで何もないボス」だと示したのは凄い。

「悪性を思想の危うさではなく境遇の危うさに帰す」というスタンスが相続というテーマから呼び込まれたことは言うまでもない。悪性ですらも個々の人間ではなく相続に由来するというわけだ。この背景には、規範的に機能していた昭和の家父長制からリベラルな時代を経由して、お気持ち的に機能する令和のSNS的連帯思想が出現しているという見解に俺はかなり同意する。

 

フィクションとは何か

芸術界隈の基本文献だが割と最近邦訳された……みたいな本らしい。ページ数が多いが、初出の単語や概念には定義を欠かさない明晰な書き方をするので読むのはそこまでしんどくはない(ただし中盤以降は若干読みにくいということを後で書く)。

「フィクションとは何か」という大上段のタイトルには偽りが無く、小説から見立て遊びまで含めた広範な営みをフィクションとして一括で議論の対象にできる汎用性の高い理論が強力だ。分析系の学者らしく、既存のフィクション論とは汎用性の高さで差別化していることは本文中でもはっきり明言されている。主に電子技術の発達によってスマホHMDを用いた新しい性質のフィクションが次々に出現する昨今、論の射程は広いに越したことはない。

大雑把に言えば、ウォルトンは鑑賞者のごっこ遊びという営みにフィクションのフィクションたるゆえんを見出している。作り手ではなく受け手にその根拠を帰すスタンスは、正典を緻密に読むというよりはSNSで盛り上がるような現代的な大衆娯楽の在り方とも相性が良く、もっとはっきり言えばマス層のオタクにはかなり使い道の多い理論のように思われる。特定のワードを流通させることでフィクションを駆動させるバズマーケティング的な手法や、Vtuberがリスナーとの合意形成の中で相互にコンテンツの内容を規定するインタラクティビティまで「受け手のごっこ遊び」という範疇に収まるのであれば、ごっこ遊び論の高い汎用性はいよいよその真価を発揮するだろう。

ただ、大枠の議論が非常に強力である一方、実際に小説や絵画への適用という各論めいた話になると途端に勢いが削がれる点はかなり気になった。語り口がモニョモニョしてきて「こういうこともあるしこういうこともあるよね、こういう理由かもしれないしそうじゃないかもしれない、結論は出ないけど筆を置きます」というような章が続いて少しゲンナリしてくる。
それは反論に対する再反論として想定されている細部の議論についても同じような印象がある。絵画に全く描かれていないことを言い立てるような不毛なフィクションをの消費態度を排除するために「非公認」とみなしたり、オペラで死に際に息も絶え絶えのキャラクターが雄弁に歌うという矛盾に疑問を呈するクソリプを「愚かな問い」として棄却することがそれだ。それら個々の判断が実際に恣意的であるか否かを議論する必要があるとは思わないが、個々の判定が可能性として恣意的であり得るか否かは気になるポイントだ。

そうした欠点は恐らく汎用性と裏表のものであり、受け手側に不当に高い自由度が与えられることを抑制するための理論武装の準備が形式的に必要なことは理解できる。とはいえ、その取って付けた感はもしかしたらウォルトンはそうした論点の具体的な判断を調停することは自分の仕事ではないと考えているのかもしれないとすら思うほどだ。

また、冒頭から一貫してフィクションの価値を予行練習や思考実験といった現実への適応能力を高める機能に見出している点にも疑問が残る。その見解は不自然なほど葛藤なく提出されているものの、もっと素朴にフィクションそれ自体が快楽であるとか、全く荒唐無稽なことであっても想像してしまうというような反論はいくらでも可能であるように思われる。ごっこ遊び論との整合性を保つために後付けで言っているような感触は否めず、どういう経緯でそのポジションを取ったのかの説明が欲しいところだ。

 

フィクションの哲学 

フィクションの哲学 〔改訂版〕

フィクションの哲学 〔改訂版〕

 

以前読んだが再読。

帯に「フィクションとは何か?」と書かれているように、全体的な著者の主張としてはウォルトンの議論に依拠しつつ問題点を修正するような話になっている。乱暴に言えば「何が描かれているのか」と「如何に描かれているのか」を区別する視点、フレーゲの言う意味と意義の区別をごっこ遊び論に上乗せしようというような話で、改訂としては非常に穏当で妥当であるように思われる。それは純粋に解像度を上げるもので特に反論が生まれるようなタイプの改訂でもないので、あまり思うところがない。

本論に入る前に議論を整理する各章には啓蒙的な色彩があり、議論の水準を切り分ける上でも便利だ。様々な既存の論点を提示して有名説を紹介し、反論と再反論を付していくというオーソドックスな構成でかなり読みやすい。ただ、それは決して悪いことではないが、作者に固有の関心が割と強く押し出されていることもあって、入門書としてベストかどうかはわからない。

 

ダーケスト・マインド

ダーケスト・マインド (字幕版)

ダーケスト・マインド (字幕版)

  • 発売日: 2019/02/08
  • メディア: Prime Video
 

X-MENのスタッフが作ったあくまでもX-MENとは別の映画らしいが、あまりにもX-MENと同じ設定なので外伝作品と言ってしまっていいような気がする(アメコミお得意のマルチバースか?)。

内容としても、X-MENシリーズが語り落としてきた部分をきっちり補完している。学校設定がある割には年齢層が高めで大人やジジイが戦いがちなX-MENとは異なり、ダーケストマインドでは明確にティーンエイジャーにフィーチャーしているのがそれだ。
ヒーロー映画では「守る側:大人と強者」と「守られる側:子供と弱者」は明確に区分されがちだが、実際にはその間には中間地点があるものだ。ダーケストマインドでは「チャイルド・リーグ」という組織がその両義性を表現しており、子供たちを守って収容所から脱出させたかと思えば、子供たちを訓練して兵士として戦わせたりしようとする。そうなると子供たちからチャイルド・リーグへの評価も割れてきて、自分たちを守ってくれる「味方」なのか、それとも自分たちの能力を利用しようとしている「敵」なのかは一向に判然としない。

だが、その二つはそもそも明確に分けられるものではないのだ。「実は悪の組織でした」「実は善い組織でした」という結論はついぞ出ることはなく、最終的には主人公は自分の判断で仲間を守るために仲間の記憶を消して組織の尖兵になることを受け入れる。その両義性はX-MENではプロフェッサーが繰り返し提示してきた論点でもある。精神操作能力は人々を正しく導くのに非常に便利である一方、他人を抑圧して反発を生むこともある。そうしたパワーバランスについての葛藤に年代的な問題を上乗せし、大人でも子供でもないティーンエイジャーを主人公として描かれたのがダーケストマインドだと言えよう。

オリジンストーリーとしては非常に面白かったが、これは主人公がポジションを決めるまでの過程に価値がある映画だから、続きがあったとしても単にX-MENの焼き直しになってしまうだろう。一作限りにしておいた方が無難そうだ。

 

Vivid Strike!

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別に面白くはなかった。流石に最終的にはリンネとフーカが決勝でバトルやろなあと思ったら、ヴィヴィオが前作主人公補正でリンネを倒して大会編が突然終わったのにはかなり笑ってしまった。

Vividからの流れで少女たちは世界の危機を云々しなくなり、代わりにリングに囲いまれた小さな世界で愛憎が描かれることは共通している。スラム上がりのフーカがリングにスポーツルールに組み込まれる中で規範を身に付けていく流れも前作のアインハルトと同じだ。A's系ならリンネとフーカのいざこざは世界を巻き込む大騒動へと発展するのだろうが、今作では街角で殴り合うだけで終わってしまう。個々人の問題を無駄に大袈裟に拡張させないという、アンチ・セカイ系みたいな趣きすら感じないこともない。

それに伴って二人の問題もかなり小さなレベルで収拾されることになる。回想が豊富な割にはフーカは一貫してリンネの過去を取り上げようとしないし、とにかく今現在に「嫌な目をしている」ことだけを問題視する。Vivid Strikeは更生物語であって復讐物語ではないのだ。
それは別にいいのだが、過去エピソードのインパクトが強すぎて「いや流石にいじめっ子が普通に全部悪くない?」みたいになるのは俺だけじゃないと思う。そこは素朴にプロットのバランス感覚がおかしい。リンネの抱える問題の設定が噛み合わないせいでフーカのスタンスもよくわからないことになっている気がするが……

 

ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団

ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団 - PS4

ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団 - PS4

  • 発売日: 2017/09/28
  • メディア: Video Game
 

クリアはしておらず、結局ラスボス戦で断念してしまった。厳密に言えば消費コンテンツではない。アクションゲームではなくRPGなのでラスボスを倒そうと思えば倒せるのだが、恐らく倒すまでには十時間くらいの追加時間投資が必要であることが見込まれ、それだけの気力がもう残っていない。

面白いか面白くないかで言えば面白くなかったのだが、それは俺にゲームを楽しむ能力が欠如していたからで、日本一ソフトウェアの責任ではない。俺が消費コンテンツの質と量を稼ぐコスパ思想に毒されすぎて、ゲームに真剣に向き合っていなかったのが全て悪い。日本一ソフトウェアRPGなので色々と要素があるのだが、俺は無限にレべリングしてステータスで殴って突破するという攻略法しかとらなかった。レベリング中が退屈なのでガスキーのハースストーンを観戦を並行しながら遊ぶためのスマホ台を購入したくらいだ。

(↑これの後ろでプレイしているのがルフラン)

レベル上げで詰まることがあればもう少し真面目にやったかもしれないのだが、恐らくある程度はゴリ押しでも突破できるようにレベルデザインされているのがまた厄介なところだ。俺はレベリングを一生やめなかったし、俺の話を聞いたひふみが漏らした「キャタピーLv100×6で殿堂入りを目指すポケモン」っていうのがマジでそう。

そしてキャタピーの群れで辿り着いたラスボスは流石に強く、ゴリ押しレベル上げでは倒せないのだが今更相性やスキルをきちんとやるモチベーションもないのでここで挫折となった(ただ厳密に言えば転生システムがあるのでもっとレベリングすれば多分倒せないことはない)。「全然終わらないし面白くないなー」と思っていたのが全部自分の攻略が全て誤っていたことが原因であり、それほどまでに自分のゲームを遊ぶ能力が衰えていたことにかなりショックを受けてしまった。俺はこれでもゲームを初めてプレイするジジイではなく一応遥か昔のワンダースワンの時代からそれなりにゲームをプレイしてきたはずである。年単位でゲームを遊ばないでいるとそのレベルのプレイをしてしまうんだなあと噛み締めた。

今回の失敗を受け、少なくとも一人用ゲームは真面目に向き合って遊んだ方がいいという教訓を得た。映画とか漫画は「見さえすればいい」「読みさえすればいい」というコスパ至上主義で取り組んでも割となんとかなるのだが、ゲームは「クリアしさえすればいい」みたいなスタンスでやると明確に体験の質が落ちる。色々試行錯誤する時間を確保するような余裕と意識を作ってから取り組まなければならない。「この一ヶ月は絶対に他のコンテンツには触れずにこのゲームだけやる」みたいな覚悟を決めてから遊んだ方がいいのかもしれない。

ゲームの話一切せずに自分語りしかしてないけど、消費コンテンツじゃなくて消費失敗コンテンツだから別にいいか……正直なところ、俺の失敗を抜きにしても思い付きで作られたような物語的な統一感のないダンジョンとひたすら殺伐としているだけで何が問題なのかよくわからないストーリーは言うほど面白くなかったという話もある。

 

アーチャー 地獄のデス・ロード

アーチャー 地獄のデス・ロード(字幕版)

アーチャー 地獄のデス・ロード(字幕版)

  • 発売日: 2019/12/01
  • メディア: Prime Video
 

戦闘美少女が好きな人は少なくないと思うが、洋画において戦闘美少女は一つのクソ映画ジャンルを構成しており、何となく女の子が戦うというあらすじだが主演の女優はまともにアクションができず内容も普通に面白くないというカスみたいな作品が一定数ある(アクションができる女優はギャラが高いのだ!)。マッドマックスに便乗した邦題が目を引くこの映画もその典型である。

★弓×女子高生 「トゥームレイダー」「ハンガーゲーム」に続く究極のヒロイン・アクション誕生!
トゥームレイダーアリシア・ビカンダー、「ハンガーゲーム」ジェニファー・ローレンス、「タイガー・ハウス」カヤ・スコデラリオに続き、
【弓】を武器に、誰よりも強く、賢く、美しく戦うニューヒロイン誕生! !

この内容紹介文はパッケージにも書いてあるのだが、よく読むと勝手に類似した内容の名作を並べて勝手に続いているだけで、 「トゥームレイダー」「ハンガーゲーム」「タイガー・ハウス」とは何の関係も無い。お前はポプテピピックの帯か?

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残忍な刑務官に、弓を武器に立ち向かう女子高生を描くヒロインアクション。女子高生のローレンは無実の罪で懲罰施設“パラダイス・リッジ”に送還される。そこは、刑務官による汚職やレイプ、殺人などが横行する地獄のような場所だった…。

あらすじも嘘だらけ。ローレンは無実の罪ではなく他人を病院送りにしているし、刑務所では汚職もレイプも殺人も起きていない。入浴中に風呂場の壁にある隙間からちょっと覗かれただけです。

21/1/30 お題箱回:ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン、就活話リターンズetc

お題箱77

227.ヴァイオレット・エヴァーガーデンを見た感想が気になります。

劇場版は未配信なのでまだですが、テレビ放送版13話+エクストラエピソード1話+外伝映画を見ました。最悪でした。
一応最初に言っておくとアニメとしては非常に良く出来ていると思います。アニメとしての質が低いみたいなことを言っていると誤解されると困るのですが、作画もプロットも一流のプロが作ったんだろうなあというのは見ればわかります。
ただ、僕も人間なのでネガティブな感情によって冷静さを保てなくなるような作品も世の中には一定数あって、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』もその数少ない一つです。こういう人間性ファシズムが今まで僕の人生を凌辱してきたし、これからも屈辱を受け続けるのだろうと思うと暗澹たる気持ちになります。
つまり今から書くことは作品内の整合性や完成度に関わることでは全くなく、作品外部に及ぶ世界観の醸成や個人的な実存が懸かっていることであって、さしあたって僕はいわゆるアスペルガーの当事者というポジションでそれを語ることが最も効率的なような気はします。

『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』を主人公がアスペを克服する話と言っても正面から異を唱える人はそんなにいないと思いますが、実際、初期のヴァイオレットちゃんのアスペぶりはかなり良く描かれています。
特に第二話で恋文の返信をしくじるエピソードはかなり良く出来ています。僕も(恋文では無いですが)ある程度は心象を織り込まないといけない司法的な依頼文書の代筆において全く同じ経験があります。ロジカルな部分は順番とか因果関係を整理して書けるんですが、それを受けてどう思ったかという心象については全くわからないので一言一句コピーして書かざるをえません。聞き取れなかった部分はとりあえず穴あきにしておいて、あとでそこは何て言っていたのか聞いて埋めようとしたら「わかるだろ」と言われ、そこから冷静さを取り戻すためには一度深呼吸する必要がありました。
他の誰もが当たり前にわかるのに僕だけがどうしても全くわからない事柄というのが世の中にはいくつかあり、それを平然と「普通にわかるだろ」と言われることが僕の数少ない地雷の一つで、それが起こると今そうであるように柄にもなく取り乱すことがあります。普通って何?

僕と違ってヴァイオレットちゃんが他人の心を理解できるようになるのが第三話で、学校で友人の手紙を代筆することで正常な人間性を獲得します。
そのシーンは僕から見たら完全に意味不明で、何か見落としているのかと思って何度か巻き戻して見てしまったのですが、ヴァイオレットちゃんは特に理由なく人の心を理解できるようになったようでした。アスペの克服を誰もが自明に乗り越えられるイニシエーションとして描かれることはまさしく僕が取り乱す事態で、人の心がそんな風に簡単にわかるなら僕も僕の家族も皆揃って仲良く精神科に通うようなことにはなりません。

更に終盤でとどめが刺されます。ヴァイオレットちゃんが幼少期にキルマシーンをやっていた頃にも少佐が「お前にも心があるはずだ」みたいなことを言ってヴァイオレットちゃんが「そうかも」みたいな感じになるシーンがありました。
実はこれはヴァイオレットちゃんが心を学ぶ物語ですらなくて、本当は最初から持っていた心を思い出す物語だったわけです。他人の心が理解できない人間は最初からいなかった! それが如何に病的でネガティブなものであるにせよ、ステータスとしてのアイデンティティを塗り潰されるだけでは飽き足らず、その存在そのものを遡及的に抹消される屈辱って皆さんには経験がないものなんでしょうか? この比喩は若干言い過ぎであるにせよ、それは「実は黒人なんて最初から世界にいなくて、皆白人だからそれを思い出せばいいだけ、それで一件落着」と言われているようなもので、多数派側の言説の強さに物を言わせた蹂躙です。

この作品が「寄せ書きで癌が治った」「癌なんて最初から無くて気の持ちようで克服できる」レベルの完全なる疑似科学的ファンタジーとして作られているならともかく、心を巡る繊細で実直な話であるという文脈で制作され受容されていることに対しては素朴な恐怖感があります。
人の心を解する人間性を誰もが獲得すべきものとして、そして誰もが本当は最初から持っているものとして、それ故に思い出すだけで獲得できるものとして描くことを人間性ファシズムと呼んで何の問題がありましょうか? そういえば僕は人間性ファシズムによって長らく社会から疎外されてきた異常者だったなという感触を久しぶりに思い出せたことには感謝します。

また、ヴァイオレットちゃんが心を学ぶにつれて戦闘美少女としての過去をどんどん否定していくこと、すなわち「人間性の獲得」という主題を描くに際して戦闘美少女のモチーフを踏み台に配置していることに関しても、戦闘美少女のフェティシストとしてかなりショッキングでした。
僕がこの作品で心から良いなと思ってよく覚えているシーンって四つあって、一つは幼少期のヴァイオレットちゃんがキルマシーンをやっているシーン、二つは現代のヴァイオレットちゃんが落ち葉を踏んで池を渡るシーン、三つは現代のヴァイオレットちゃんが空中降下して兵士を無力化するシーン、四つは現代のヴァイオレットちゃんが電車の上で兵士相手に無双するシーンです。要するにヴァイオレットちゃんの身体能力の高さが披露されるアクションシーンしか心に残らなくて、あとの心温まるエピソードはなんか色々あったなくらいの解像度です。

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ナチュラルにフィジカルエリートでキルマシーンのヴァイオレットちゃんって本当に素晴らしく描かれていて、気品と暴力を兼ね揃えた戦闘美少女が好きな人はそこだけでも見た方がいいです。僕はアニメ制作のことはよくわかりませんが、京アニの凄い技術力で理想的な戦闘美少女を描いているからこそ、それを否定すべきものとして踏み台にしようとしているのが不可解でなりません。
法的倫理的規範から逃れている戦闘美少女に外れ値としての象徴を勝手に委託して喜んでいたら後半でなんか知らんけどそれを反省し始めることで結局踏み台でしかなかったことがわかりオイオイみたいな感じ、『シャーマンキング』のアイアン・メイデン・ジャンヌとかでもありましたね。

ちなみに『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』みたいなものを見て心が傷付いたときに回復するための作品のリストもいくつかあって、『悪徳の栄え』や『ファニーゲーム』によって僕は心の安定を取り戻します。もし僕と同じような営みをしている人がいれば同じような特効薬を教えてください。

 

228.LWさんには是非法哲学をやって欲しい

229.法哲学とか興味ないですか

いいですね。あまりにも脆い虚構である規範性が現実とどう折り合いを付けているのかにはかなり興味があるので、いずれやってもいいリストに積んでおきます。
なんかイメージだけで語るんですけど、法哲学ってめっちゃコスパが良さそうなイメージがあります。実定法をきちんと扱うタイプの具体的な法学をやろうとすると無限にあるバリエーションと戦わないといけないので非常に労力がかかりそうですが、背景にあるフィロソフィーを攫うのはもう少し楽そうに思えます。全然違ったらすいません。

 

230.早く大学院進学して東大に戻ってきて❤️

231.LWさんはTwitterとかの市井とかじゃなくて、大学でオタク論を展開すべき人材だと思うからcome back!

いずれ大学院に戻るのはかなりアリ寄りのアリですが、社会もインプットとして得るものが結構あるので少なくとも三十代くらいまでは働こうと思っています。

ただ、最近多少なりとも進路を真剣に考えるにあたって、大学に戻るとは言ってもどこに戻ればいいのかがよくわからなくなってきています。
ありがたいことに僕に何らかの才能があると言ってくれる人は稀にいるのですが、それが活かされる具体的な研究室とか研究分野とか職種がさっぱりわかりません。僕の人生の立ち回りの下手さって、そういう上手くどこかに居場所を見つけられないような性質によって示されるようなものだったような気もしてきました(いま、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の後遺症で過剰に卑屈になっているような気がします)。

ここ良いですよみたいな具体的なやつがあったらリプライとかDMでコッソリ教えてくれるとありがたいです。

 

232.LW就活記録もっと見たい

それらしいエピソードはもう書き尽くしてしまって、あとは基本的に書類か一次選考で即落ちただけ、特に大手はどこも見向きしてくれなかったのでもうあまり書くことがありません。
ちなみによく言われる「東大なら書類選考くらいはとりあえず何処でも通る」というのは真っ赤な嘘で、「将来やりたいこと」の欄に「早く退職して大学院に戻りたい」とか書いていると余裕で落とされます。人格が規格外に終わっている場合、「東大大学院情報系卒」という恐らく日本で最強の一角と思われる学歴を完全に打ち消すことが可能です(ああ、また卑屈になっている!)。

ただ、そういう学歴だと黙っているとエンジニアになってしまうので、そのルートは頑張って避けました。理系の連中って皆自明にエンジニアになるし理系も文系もこぞってエンジニアを目指す時代ですが、僕は具体的な技術には普通に興味が無いし、休日に技術の勉強をしたくありませんでした。素朴に考えて「作る人間」より「作らせる人間」の方がいいなと思ったのもあります。その両方を兼任できれば楽しそうですけど、それって概ね起業するようなエンジニアのことであって、別に雇われエンジニアのことではないです。

今も依然としてエンジニアにならなくて良かったと思っているので、これは珍しく僕が僕の適性を正しく判断したエピソードであるような気がします。同じような悩みを持つ理系の方がいればエンジニアにはならないことをお勧めします。
せっかく情報系の知見があるのにエンジニアにはならないのは勿体ないみたいに思うかもですが、それは何だかんだ割とどこでも役立ちますし、むしろエンジニアじゃない方が相対的に便利な感じすらあります。エンジニアがtensorflow使ってコード書けても誰も褒めてくれないですけど、エンジニアじゃないのにPythonでexeファイルの一つでも作れたらそれは一つの特殊技能ですからね。

ちなみに東大卒の異常者の中には高みを目指して後天的な能力を磨き上げるのではなく、逆に低みを目指して先天的なスペックだけで無双しようとする就活の方向性が一定数あって、彼らはそれを「異世界転生」と呼んでいます。

 

233.どういう系の仕事してるんですか?

上に書いた理由でエンジニアを避けてプランナーみたいなやつをしていて、業界はエンタメ・コンテンツ系です。
それを言うと90%くらいの確率で「Cygames?」と聞かれるんですが、Cygamesも一次選考で落とされました。面接で作りたいゲームを聞かれて「どちらかと言うとソシャゲよりは据え置きゲームの方が作りたい気もしますね」とか言ってお前何しに来た?みたいになったのが敗因だと思われます。

今は志望動機を空欄で出す僕を採用するようなベンチャーでまあまあ楽しくやっているんですが、ベターではあってもベストでも無さそうなので、いずれ転職するような気はします。ちなみに万が一このブログを見て「是非僕を雇いたい」みたいな人がいれば話くらいは聞くのでDMかなんかでコンタクト頂けると幸いです。

 

234.「二期の終盤において、ロズワールはスバルが死に戻りせざるを得ない状況を用意していた黒幕であったことが明らかになる。」

「二期の終盤」ではなく「二期前半の終盤(3クール目の終盤?)」ではないでしょうか。観ていないのでよくわかりませんが……。

saize-lw.hatenablog.com

上の記事について仰る通りですね。ありがとうございます、訂正しました。
責任転嫁ではないですが、なんでリゼロって普通に第二期第三期って言わずに第二期前半後半という分け方をするんですかね。何か制作の都合とか商業的な事情があるんでしょうか。

 

235.読んだ本の内容ってどれぐらい・どの期間ぐらい覚えてますか?

本の内容をブログ記事にばしばし引用されてるので気になってます

本によってピンキリですが、有用そうな本の論点はなるべく覚えているように心がけています。基本的に内容や主張を綿密に覚えている必要はないですが、論点や話題は最低限覚えておいた方がいいという意識があります。例えば

「国内で製造される牛肉の総量は年々減少傾向にあり、その要因は三つ考えられ、①海外からの牛肉の輸入量増加 ②消費者の嗜好の変化 ③~……」

みたいな話があったとして、要因を三つもずっと覚えておくのは普通に無理です。だから「牛肉が減ってる」「牛肉の話」くらいの解像度に落としてそこだけ覚えておいて、後々牛肉の話が出たときに思い出して本自体なりメモなりを見返して内容を復活させるくらいの運用です。記憶には残していなくても以前に一度理解したものは読んでいるうちにすぐ思い出してきますし、そうやっているうちに定着することもあります。

 

236.LW流時間節約術公開してほしい

前に書いたことがだいたい全てだと思います。1日に使える時間は決まっているので、あとはそれを適切に割り振るだけです。

saize-lw.hatenablog.com

僕は毎日8時間くらいテレワークできちんと働いているわけですが、1日は24時間なので仕事をしても16時間余ります。ここから8時間を睡眠に、3時間を食事や風呂や掃除に充てても平日でも1日5時間は趣味の時間が確保できます(休日は予備日兼休息日みたいな感じで計算に入れていません)。
よって、趣味をこなす義務がある時間が週に5×5=25時間あって、そこから映画なり書籍なりアニメなりブログなりラノベなりに割り当てます。例えば全部映画に振ると朝と夜に1本ずつ見て月~金で10本は見られます。

最近気付いたことには社会人の場合は残業をしないということが最大の時間節約のような気がしていますが、それは皆さんの職場環境によるようです。

 

237.ジュエルペット!?

てぃんくるとサンシャインだけ見ており、サンシャインは非常に好きでした。当時中高生だったので土曜に登校して体育館で謎の集会に参加しつつガラケーワンセグで見ていたことをよく覚えています(「ワンセグ」って今通じるんですかね?)。

二年前くらいからサンリオ公式でジュエルペット全シリーズ全話無料配信しているので、暇な人はサンシャインを見ると良いと思います。特にサンシャイン屈指の謎回と名高い第36話がオススメです。

youtu.be

これ何かの伏線とか誰かの能力ではなくいきなり唐突に入ってきて最後まで特に解決しなかったんですよね。単発で見られて10分くらいで済みます。

21/1/24 2020秋アニメ感想まとめ

2020秋アニメ

2020秋はやたら見るアニメが多いシーズンだった。
俺は四半期の始まりには放映アニメのHPを一通り確認し、「女の子がまあまあ可愛いキャラデザで主人公が女の子のアニメ」を全て録画している。つまり、2020秋は女の子がまあまあ可愛いキャラデザで主人公が女の子のアニメがやたら多かった。

魔女の旅々

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面白かった。
こういう良い性格をしている主人公は普通に性癖でイレイナちゃんが今期最萌えヒロインだった。利己的なナルシストであることが、表面的なキャラクターだけではなく作品全体を通して貫徹されているのが良い。

補足370:一部でイレイナちゃんに付随している「わからせ」系のカルチャーはよくわからない。俺も虐待系の二次創作は結構好きだが、強者の鼻を折るタイプのものよりは弱者を更に虐げるタイプのものを好む(ゆ虐wikiにあるSSは昔全部読んだ)。

異世界転生でこそないものの主人公の魔法(=暴力)絡みのスペックは高めに設定されており、「私また何かやっちゃいました?」系のやつかと思いきや、意外にも強さは常識的な範囲に収まっている。魔女ではないチンピラやルーキーや一般兵士には圧勝するが、同様に熟達した魔女であるネームドキャラクター相手に勝るわけではない。むしろイレイナ自身のスペックがほどほどに収まっていることによって、彼女自身は遭遇する事件の解決に極めて消極的なスタンスを取ることが特徴的だ。
コメディで済む範疇であれば解決するに吝かではないが、自身がリスクを背負うようなシリアスな大事件となると途端に逃げの一手を決め込んでしまう(この態度はちょうど同期である『くまクマ熊ベアー』の主人公ユナが何でもかんでも解決してしまうことと好対照を成す)。三話や四話では街や国の崩壊を見届けておきながら特に誰も助けずにただただ立ち去ったほか、十一話では母親絡みの真相からあえて距離を取る態度を見せた。

特に圧巻だったのが最終話で、概ね最終話のためにあるアニメだったようにも思われる。
もともと、生まれついての悪のような幼女キャラクターがいきなり登場し、イレイナは力及ばず無力に打ちのめされるという前振りのようなシリアス話が展開したのが最終話少し前の九話だった。素朴に考えると最終話ではその事件を解決して綺麗に一件落着みたいな流れかと思いきや、実際の最終話ではイレイナの精神世界で自己分析を繰り広げるだけで30分を使い切ってしまった。
自分の性格には色々な側面があること、自分の行動にも様々な可能性があったこと、それらを直視することが自分の人生をより豊かにすること。全てのイベントを己に還元して自己愛を深め、自分と百合百合したことでイレイナの中では事件は解決してしまう。結果と過程が完全に逆転しており、「自分的には色々経験できて良かった」という結論を先に得たことで一件落着し、実際に起きている事件をどうにかするという過程は丸々放棄される。お前はテレビ版最終話のシンジくんか?

一話での「イレイナが旅に出る前の修行中に自分の弱さを知って号泣する」というオリジンエピソードが割と謎だと思っていたのだが、最終話まで見ると自分を認めて自分本位に物事を考えられるようになるという文脈だったのだろう。ナルシストの美少女主人公が持つ自己本位さが発生から発動まで貫徹しており、かつ、それが他人の利害には貢献しないことをはっきり描いていた点で好感度が高い。

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最終話で最後に出てきたこれから相棒になるらしい美少女もめちゃ可愛いので二期を楽しみにしている。いま最も二期が待ち望まれるアニメ。

 

くまクマ熊ベアー

f:id:saize_lw:20210117214230j:plain☝この左足壊死ニキコメがマジで天才

まあまあ面白かった。
異世界転生無双作品のあらすじを無限にインプットしたマシーンからテンプレート生成したようなアニメで、毎話藁人形みたいな薄っぺらい悪と幼稚園児向けみたいな問題を主人公の暴力性能によって一秒で解決していく。経済的な衝突も政治的な葛藤もなく、暴力に裏打ちされた適当なアイデアで何となく悪が淘汰されて身内がハッピーになっていく様子は缶詰生産工場のベルトコンベアを見ているようだった。男性主人公なら見ていられなかったが、女性主人公なら最終話まで見てしまうのでやはり無双するのは美少女の方がよい。

暴力だけで何となく全てを解決する主人公が唯一その範疇を超えた大義を口にしかけたのが第五話だ。浅い道徳によるウンチみたいな説教をしたあとにそれが割と勘違いだったことが発覚し、最終的に「私はもう少し大人だと思っていたんだけどね……」と猛烈に自省していたのはかなり良かった。
これを受けたのかどうかは知らないが、第十話あたりでは巨悪が暗躍する事件に対しても大義を振りかざすこともなくなり、完全な部外者として事情も良く知らないまま「私また何かやっちゃいました?」状態で何となく解決してしまうという成長が見られた。また、それと前後して「米が食いたい」とか「飯がうまい」とかカスみてえなモチベーションで力を使うことが増えていく。
自覚的な大義の行使ではなく無自覚な共生の成功として「私また何かやっちゃいました?」があるのであれば、それは一つの倫理的な態度であると言えなくもない。すごい力を持つ主人公が高貴な精神によって駆動するのではなく卑近な欲や身近な人のためだけに力を行使するという姿勢の優れること、裏を返せば暴力に裏打ちされた正義の幻想は剥き出しの暴力よりもタチが悪いということを『くまクマ熊ベアー』に教えてもらったような気がする。

ところで最後まで割と謎だったのが、このアニメは「ネトゲの世界を舞台にしている」という設定があったような気がすることだ。ユナはSAO式に仮想世界から出られなくなっているのか、それとも食事や排泄は描かれないだけで普通に適宜行っているのか、一話で適当に解説されてから二度と触れられないのでそれすらよくわからない。
同じように女性主人公がネトゲ世界で無双するアニメだった『防振り』では周囲がNPCではなく人間だったことに加えて、「運営に脅威として認識される」という形で明確に現実の水準でその異常性を披露される機会が与えられていた。ゲーム内で強いプレイヤーがゲーム内で強いのは当たり前なのだが、そこから現実に繋がる尾が運営や掲示板という接点を通じてリアルの美少女主人公であるメイプルにフィードバックされていたわけだ。
その一方で、『くまクマ』のユナはそういうフォローがない。つまりコンピュータプログラム相手に無双したり感謝されたり成長を語ったりするあまりにもヤバすぎる自慰行為を12週に渡り見ていたことになるが、それをやべえやつと思うのがもう時代遅れなのかもしれない。『ドラゴンクエスト ユアストーリー』が完全に内面化されてしまうとそれを云々言う必要すらなくなる。

ついでにどうでもいいことをもう一つ言えば、結局「熊」というモチーフは何だったのかもよくわからない。
「デザイン的な意匠として熊が用いられている」ということ以外に本当に全く何一つ熊要素がなく、何なら『しかシカ鹿ディア―』でも全く同じ話が成り立つだろう。オリジナルアニメならまだしも原作が文字媒体の小説でビジュアル要素だけの差別化点があったというのはよくわからないが、原作を読む気もしないのでわかる日も来ないだろう。

 

戦翼のシグルドリーヴァ

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まあまあ面白かった。
見るからに萌えアニメなキャラデザの割には萌えキャラに対する感性が若干古く、やたらビジュアルが強いアズズ以外はまあという感じ。園香が初期には腹黒キャラの片鱗を見せていたのだが、あまり回収されることもなく泣いているヒロイン枠に収まってしまったのは悲しい。

華々しく展開する戦争の裏で「死者をどう弔うか」というテーマが隠れて進行しているのはやはりリゼロの長月だなと思わざるをえない。戦争でキーになっているのは実は戦いそのものではなく戦死者なのだ。黒幕である神オーディンの目的はラグナロクに向けて戦死者の軍勢を完成させることだし、オーディンに対抗する人間陣営の中でも死にゆく兵士を救済し葬送する者としての主人公たち美少女の役割は何度も強調される。第三話の終盤で死にゆく男を救う宮古のポジションは少し前に流行った「看取らせ音声」そのものだ。人類の存亡を巡る生死という水準の戦いは物語が進むにつれて後退していき、オーディンが裏切ったあともなお人間たちに力を与えるあたりで完全に形骸化する。

つまるところ、死者の弔いを巡る神と美少女の闘争が『戦翼のシグルドリーヴァ』だったと言ってよい。表面的な「生存闘争」においては美少女を擁する人間陣営が神の率いる怪物に打ち勝つ裏で、裏面での戦死者を巡る「死亡闘争」においても最終的には美少女たちが神を打倒する。すなわち、ラグナロクという更なる戦いに向けて神オーディンが死体を引き取ることと、コミュニティの中で神格化された美少女が死体を看取ることのうちで、後者の方が勝利したというわけだ。

こうした救済を巡る神vs美少女という構図は、まさしくオタク文化の中で実存を巡る水準で美少女が神的なポジションを占めてきたことのカリカチュアとしてよく出来ている。実際、美少女が男どもに安らかな死を与える神の如き存在と化すことと相対的に、美少女を担ぎ上げる男性陣はほとんど脱人格化されたアイドルオタクのモブとして描かれる。
このアニメで登場する男たちは皆が筋肉質なマッチョ兵士であることを見て、ムキムキな兵士は貧弱なアイドルオタクとは対極の存在ではないかなどと早合点してはならない。マッチョが現実には怒張した男根の如き肉体によって性欲を喚起するのとは異なり、アニメではむしろ性欲を排除された男性としてのステレオタイプがある。過度なマッチョの戯画化された肉体は裸体を晒しても性的な文脈を構成しない男性としての需要がある(女子高生たちの前で平然と脱衣していた街雄さん、マチズモなきマッチョ!!)。よって、性欲のような俗世の文脈を廃して美少女を生死を司る神のポジションに祭り上げるモブ男性としてマッチョという類型はむしろよく合致する。
そんな数百人の男性たちが数人の美少女をアイドル視している様子はそれなりにグロテスクである。男性社会の中で数少ない女性を女性であるというだけでありがたがって褒めちぎる有様は限りなく昭和的というか、想像的な輪姦と言っても過言ではない。いまどきポリコレ的にかなり問題のある扱いであり、少なくともこんな職場が衆目に晒されればただちに炎上することだろう。とはいえ、オタク文化における美少女の神的ポジションを可能な限り誠実に描こうとすればこんな構図にならざるを得ないというのもまた事実だ。個人的には露悪的と言わざるを得ないこの構図が自覚的に選択されたのかそうでないのかは長月達平に聞いてみたいものだ。

補足371:「クラウディアたちを可愛い可愛いとまつり上げるのはコミュニティ的な事情であって、実際のところ別にクラウディアたちはそれほど可愛いわけでもない」ということを示唆していればかなり面白かっただろうが、俺が視聴をやめていた危険もある。

 

アサルトリリィ

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面白かった。神琳ちゃんが激萌えです。

「アサルトリリィ」とかいう内容物を愚直に記載したタイトルを最初に聞いたときは「ペヤング 酢コショウ味」みてえな名前だなと思ったが、実際に見れば確かにアサルトでリリィというのは有りそうでなかったような気もしてくる。
百合ヶ丘女学園という学校名、姉妹の契り、ワンピース風のモノクロ制服、上級生への「~~様」呼び等々、テンプレートな特徴を無数に備えた全寮制女学校という舞台は『マリみて』『ストパニ』のような古典的ジャンル類型の自覚的なパロディと言ってしまって良いだろう。今まではそこで感情の機微を無限に云々していたお嬢様たちが巨大な武装を振るってバチバチに戦えるという基本設定はかなり魅力的だ。単なるバトル百合はいまどきいくらでもあるが、『神無月の巫女』のように裏で展開するでもなく、お嬢様たちが表立って戦闘を行えるという造形の優位性が先立っている感じはドールプロジェクトからという出自の成果なのかもしれない。

補足372:メインキャラデザが八重樫南なあたり、学園×戦闘×百合というテーマが共通する閃乱カグラオルタナティブのような印象もある。『閃乱カグラ』は比較的下品寄りというか「うお~胸デカ!!」的なテンションだが、アサルトリリィは綺麗な方の閃乱カグラみたいな感触がある。

やたらキャラデザの優れた美少女が無限に出てきて、ほどほどなやり取りが無限に展開しつつ、うるさくない程度に戦闘も入ってきて戦闘美少女ものとしては大満足の内容だった。しかし後半で展開する事件に関しては何がしたかったのかよくわからない。
中盤でユリを巡って展開した「ヒトとは? ヒュージとは?」みたいな論点は結局大した結論の出ないうちにユリが特攻して爆発四散してしまうし、百合アニメだし素朴にルッキズムを肯定する水準で収拾されたのかしらんと思いきや、今度は故人のお姉さまが出てきてヒュージ寄りの思想を述べてカリスマが発動し、それもそれで全然発展せずに主人公が有耶無耶にして設定的にも心情的にもよくわからないまま終わってしまう。
そのあたりの話題の取っ散らかり方はメディアミックスの悪いところが出ているという感じがある。アニメ設定を超えた膨大な設定資料集が背景に控えていることは、明らかに完全把握を想定していない美少女の人数や、やたらSFっぽい設定を詰め込まれているヒュージからも伺える。設定に振り回されて収集が付かなくなっていたというのは恐らく的を外した評価で、アニメでの消化不良点は先日配信が開始されたゲームとかでいずれ補填されていくような気もするのだが、未だにインストールしていない俺がそれを目にすることがあるかどうかはまだわからない。

 

安達としまむら

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まあ面白かった。

俺にしては珍しいことに『安達としまむら』は一巻から買って追いかけているコンテンツであり、古参!!の目から見てもかなり忠実に映像化されている。序盤のクライマックスである安達クエスチョンが終わったあたりから延々と安達がウダウダする話が続いて中弛みするのも原作通りだ。

ただ、メディアが小説からアニメに変わって明らかに問題が生じているのは、「ヤシロや樽見が普通にめっちゃ可愛い」ということに尽きる。
安達としまむら』は(適当にベチャベチャの百合百合を描くタイプのやつではなく)割と正統な青春恋愛小説を志向しているので、安達の恋路ないし友愛を遮る明確な障害を設けた上でそれを乗り越えるような構造で話がドライブしている。障害というのは例えば、安達個人としてはしまむらとの距離を詰めるにあたって相手からのレスポンスを恐れる内的な抵抗だったり、しまむらとの仲を引き裂くべく現れる新キャラという外的な妨害だったりする。
特に後者の外的な妨害キャラとして配置されているのが初期のヤシロや中盤の樽見であり、小説では概ね語り手である安達の意向を露骨に折るような形で明らかに鬱陶しいオブジェクトとして現れる。だからニコニコではヤシロや樽見安達としまむらの間に割って入るたびに「ガッガイアッッ」みたいなコメがテンプレ化しているのは非常に正しく、彼女らはいわば敵として安達の恋物語ないし友情物語をドライブするのに重要な役割を果たしているわけだ。
ところが、アニメではヤシロも樽見もビジュアルが可愛いので画面に入ってきても全く邪魔にならないのだ。小説であったときの鬱陶しさ、本当に邪魔な感じというのがすっかり消えてしまって、アニメで見るとめっちゃ可愛いので「いや別によくない?」という寛容さが頭をもたげてくる。特にヤシロは小説で読んでいると基本的に話が通じないし何がしたいのかよくわからない意味不明キャラだったのだが、アニメだと美少女が二人いるところにヤシロが参加すると三人になって画面が華やいで嬉しいくらいの全く逆の感想になってしまう。

もっと言えば、安達がしまむらへ一歩踏み出していくという最大の主題もイマイチその脆さというか切迫している雰囲気が伝わらず(切迫している安達もそれはそれで可愛いため)、何となく予定調和じみている、ビジュアル的にはまあそうなるよねという安心感のあるものにも見える。
更に加えて、しまむらの超受け身体質も本来は(つまり小説では)かなり長短あるものだったはずだ。態度の曖昧さ故に誰からの好意も宙吊りにして放置してしまい、それが他人を傷付ける割にはそれにすら鈍感という邪悪さを持ち合わせているのがしまむらのパーソナリティだ。しかしアニメでは受け身体質によって引き寄せられる美少女がやはりビジュアル的に可愛いというただそれだけの理由によって、「しまむらのハーレム」という美少女動物園的な文脈が生成され、それはただちに「まあ別にいいんじゃない」という許容に至る。

結局のところ、「女の子が可愛いだけで価値がある」という本来であればアニメの強みである部分が、「鬱陶しくあるべき女の子がそう思えない」という反転した弱みとして出てしまっていたようにも思う。
正直なところ、個人的な好みで言えば青春恋愛小説よりも激浅百合萌えアニメを好む俺はアニメ版の方が面白かったと言わざるを得ないのだが、コンテンツとしての性質を異にしていたことは書き留めておきたい。

補足373:これはメディアによって異なる時間性と人称の問題でもある。小説は時間的な断片を切り出すよりも連続した流れを描くことに長けているので「邪魔をしてくる」という行為にフィーチャーしやすいのだが、萌えアニメでは一時停止して切り出した断片ですら「描かれている女の子の静止画が可愛い」という大きな価値を持ってしまう。また、小説は一人称とか三人称とか諸説ありつつも概ね語り手となるキャラクターは決まっており、安達からの見解や推測を混ぜ込んで書くことが容易い。一方、アニメでは視点を示すカメラはだいたいいつもキャラの外部に浮いており、誰かに同一化することはそう多くない。『安達としまむら』は比較的モノローグを多用するアニメではあったが、それでもアバンやED直前といった重要な勘所以外ではなかなか安達の内なる声は聞こえてこない。

 

おちこぼれフルーツタルト

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話とやり取りが絶望的に面白くなく、ガチで美少女のキャラクターと作画だけで保っていたという意味で正しく萌えアニメだった。
ギャグの作り方が基本的にキャラの属性弄りしかないため、毎話状況が変わる割にはずーっと同じやり取りをしている。更にそのやり取りをするために各人に話題を順繰りにパスして回していく大喜利方式がめちゃめちゃ原始的で、萌え4コマ黎明期のアニメを見ているようだった(『らきすた』とかこんな感じだった気がする)。明らかに設定と噛み合っていない友達いないネタをマジで適当に擦るのもやめろ。

とはいえ、俺は固定化された属性弄りの中でヘモの「浅いヤンレズキャラ」とイノ&ニナの「ロリコンキャラ」が割と好き、リリさんの「25歳コスプレイヤーキャラ」が最強に好きだったため、そのへんを消化するノルマが毎話数秒だけ出てきたときだけ大いに盛り上がって楽しんでいた。一秒も面白くない萌えアニメも珍しくない中で、毎回数秒だけ面白いところがあるのは明確な強みだという説もある。

 

ご注文はうさぎですか?三期

f:id:saize_lw:20210124160047j:plainごちうさ、二期までは結構好きだったような記憶があるのだが、こんなに面白くなかっただろうか?
三期では「将来」というテーマが明確に前景化してキャラクターたちが折に触れて自身やコミュニティの行く末を考えるようになり、その副産物として職場や関係をシャッフルするような試みが随所に見られた。とはいえその過程も結論もギャグドリブンではなく成長ドリブンで営まれる女児アニメ的なものに過ぎないためあまりにも収まりが良く、予定調和のやり取りには全く思うところがなかった。
ただ、属性・コンプレックス弄りを一生擦り続けていた『おちフル』の惨状を見て思うことには、ごちうさがシャロの貧乏ネタとかリゼの拳銃ネタをそこまで活用せずに話を回そうという気概には(既にキャラクターが完成していることを前提とした強者の振る舞いであるにせよ)優れた姿勢を感じないこともない。

21/1/16 お題箱回:こづかい万歳、二項対立、人狼etc

お題箱76

217.こづかい万歳読んでるんですか?

たまに無料公開される最新話くらいですが読んでます。かなり面白いと思います。

comic-days.com

漫画ビューワーをブログに埋め込めることを初めて知りました。

僕は『こづかい万歳』に通底している 「制約が物事を面白くする」という思想にはかなり共感する方です。ひたすら自由なオープンワールドゲームが意外と面白くなかったり、適度に労働している方が趣味が捗ったり、時間の限られた朝の方が作業がよく進んだり、そういうことはいくらでもあります。
だから40代のおっさんが100円そこらのお菓子を買うかどうかで頭を悩ませてる様子も巷で言われるほどグロテスクではないというか、まあ人生ってそういうものだよねみたいな感じはあります。更に言えば「家庭を持ったり子供を作ったりするのもあえて金銭や時間に制約を設けて縛りプレイを楽しむためなんじゃないですか」とかついつい口を滑らせそうになりますが、それは僕とは無縁の話なのでよくわかりません。

あとキャラクター漫画としてもよく出来ていて、キャラクターを徹底的にエピソードで語る構成がすごく上手いなーと思います。
創作の一般論として「キャラクターの異常さを語る際には、それを口で説明してはいけなくて、とにかくエピソードで語れ」みたいなものがあって、僕はそれはかなり真実だと思います。「あいつは動物が嫌いなんだ」って会話で説明するくらいなら、登場シーンで猫の一匹でも縊り殺した方がいいです。「申し遅れました、わたくし月n万円でございます」みたいに異常者の自己紹介が毎回申し遅れるのにも理由があって、それはプロフィールよりもエピソードを優先して先に描いているからです。エピソードが先に来る都合でプロフィールが遅れるんですね。
ちなみに、とりあえず異常性を披露してからプロフィールを開示するという構成はジョジョのスタンドバトルと同じです(あちらもとりあえず何か極めて異常なことが起きて、それに遅れて本体が出てきて自己紹介をするという順番)。初登場のキャラクターにはとにかく最初に異常行動をさせてキャラを立てるという手法、逆に言うと、初登場時に異常行動もできないようなキャラクターは既にキャラ立てに失敗しているのでリテイクした方が良さそうです。

 

218.これまで読んだジャンプ漫画でLWさんが好きな作品ベスト10を教えてほしいです

特に深い理由はなく、ただ気になっただけです。少年漫画に拡張してもいいし、ベスト20くらいまで挙げてもらってもいいです。(多いほど嬉しい)

週刊少年ジャンプなら『ネウロ』と『めだかボックス』の二強です。理由はシンプルにそれぞれ主題が犯罪と政治だからで、逆張り精神の賜物ではあります。
とはいえ有名なジャンプ漫画はだいたい全部好きです。『ワンピース』『NARUTO』『BLEACH』『鬼滅の刃』『DEATH NOTE』『SLAM DUNK』『幽遊白書』『るろ剣』『封神演技』『北斗の拳』etc、とりあえずこのあたりは全部同列三位でいいです。ある程度売れているジャンプ漫画で「うわつまんな!」と思った例外は『ブラッククローバー』くらいしかないです。

 

219.二項対立を考える時に0か1かみたいなデジタルよりの話をされることが多いように感じるのですが、それは分かりやすさの問題ですか?

そんな気はします。
恐らく僕が理系の教育を受けた影響で、物事を二項対立に還元して明晰に対比させるような書き方はよくやっていると思います。というかそれは手段と目的が逆で、明晰に語るために二項対立を用いていると言う方が正確かもしれません。

しかし二項対立にはデジタルな0/1のように完全に切り分けるだけではないケースもいくつかあります。そうした例外のうちで特によく出てくるものを二つ挙げると、二項対立がアナログで連続的なケースとか、二項対立の対自体を崩したいケースがあります。

一つ目の「連続的な二項対立のケース」というのは、例えば物理的な「黒/白」対です。
白と黒というのは明度の問題ですから、黒を明度MIN=1で白が明度MAX=0とすれば、間に明度0.1や0.2のような項目が設定できます。具体的には灰色とか白ですね。また、近年のポリティカルにコレクトな世界観では「男/女」対も中間項を取るグラデーションやスペクトラムとして見る方が標準的です。
ただし、このケースでも話をする際にはとりあえずデジタルな0か1に切り分けてから論を進めると思います。これは単にレトリックの問題で、いくら0~1の間を取る値が可能であるとしても、最初に0と0.2から話を始めてしまったら何を言いたいのかわからなくなります。最初はそれぞれの極にある明確な対立を示して、その後で「実はその間に連続的な値を取ることもできます」と進めるのが話の筋というものでしょう。

二つ目の「二項対立の対自体を崩したいケース」というのは、例えば物理的な「青/赤」対です。
青と赤の物理的な定義は可視光線の波の長さで与えられていて、青は500nmくらい、赤は700nmくらいの波長を持つ光です。このように波長で見ると赤と青はある一定の値を示しているだけで、白と黒のように何かが最大値や最小値を取るような極同士の関係ではありません。よって通常我々が思っているのとは異なり、赤と青ではそもそも最初から何かが対立しているわけではありません(ただし、これはあくまでも波長の数値に色を還元する場合の話であり、文化的な含意やデザイン的な印象を考える場合はその限りではありません)。
この手の「実は二項対立が成り立っていない」という論理展開は人文分野でも頻出します。「弁証法」とか「脱構築」とか色々なバリエーションがありますが、特に僕が好きなのは「陰陽太極図」のモチーフです。
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この図で示されている「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転じる」というフレーズは一度は聞いたことがあると思います。つまり対立しているはずのものを極めると何故かそれは反対のものに変わってしまうため、それをデジタルな二項対立として考えることはできないということです。そうやって捉えられるものには「民主主義/全体主義」対とか「暴力/友愛」対とか色々なものがあります(練習問題:どういう論理展開をすればこれらが太極図の論理に収まるかを考えてみてください)。
とはいえ、またレトリックの話をすると、こうした「本当は二項対立が成り立たない」という事態について語る場合でもまず最初にはどういう二項について論じたいのかをはっきり提示し、その後で「実はこの二項は成り立ちません」という順番で話を進めるべきです。最初から二項をきちんと立てないうちから二項の崩壊を書くのは、単に理解しにくい下手な文章だと言わざるを得ません。

結論として僕が言いたいことは、二項対立にも明確に成り立ったり曖昧に成り立ったり実は崩壊していたりと色々なケースがありますが、いずれにせよ最初は明確に成り立っているところから話を進めるのが論理の筋だということです。
無論これは僕が理系の輩であるためにどこまでも明晰な論理展開を好むというだけの話ですが、その結果としていつもデジタルな話をしていると思われている節はあるような気はします。

 

220.まえせつ!がつまらないのは美少女とお笑いの相性の悪さもあると思います(そもそものクオリティが低いのは否定しません…)

確かにそうですね。
「美形とお笑いの相性が悪い」というのは(あまり芸能に関心のない僕でも)たまに聞く話です。鳥居みゆきやイモトアヤコは芸人をやるには美人すぎるからあえて顔を崩すメイクをしているだとか、男性の漫才師も顔が良いと大成しないとかよく言いますね。漫才師の平均顔はフットボールアワーの岩尾みたいな感じだと思います(偏見)。
商業的には『まえせつ!』をバチバチの美少女キャラデザでやればそれはそれで今の悲惨な再生数よりは人気が出たような気もしますが、かなりデフォルメに寄せた美水かがみキャラデザだったのは、イモトアヤコのようにお笑いというテーマに対して誠実だったと言えなくもないかもしれません。

ちなみにTwitterでは「まえせつ全然面白くなかった」みたいなことを書いたような記憶もあるんですが、お笑いパートは実は結構面白かったです。

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僕は滑り芸がまあまあ好きなので、「泉こなたがやるしんちゃんのモノマネ」とかいうこの世の終わりの言い換えみたいなヤバすぎるネタをしつこくしつこく擦り続けたのは普通に笑って見ていました。どちらかと言うと何も生まない会話パートとかあまり魅力を感じないキャラ設定の方が厳しくて、絶望的な滑りネタをずっと擦ってたらむしろ見た可能性はあります(石ダテコー太郎のアニメとか割とそういうところないですか? 僕はそれもかなり好きですが……)。

 

221.たしかに人狼って遊びのくせに遊びが無いっていうか、むしろ競技って感じで息苦しいとこありますもんね

それはあります。

最初に言っておくと僕は人狼が有り得ないくらい下手で、盛り抜きで全日本人の下位0.01%くらいだと思います。僕はゲーム中に何をすればいいのかが何一つわからないため、会話も投票もサイコロを振ってランダムにしか行動しません。
現在「投票パートではランダムに投票を行ってはいけない」ということだけは辛うじて理解していますが、それも東大OBやプロゲーマーを含む10人くらいから5時間くらいレクチャーを受けてようやくわかりましたし、実はまだ「本当にそうか?」とちょっと疑っています。

その状態で人狼を語るのは恐縮ですが、仰る通り、人狼は変に競技的になったせいで訳のわからないことになっているという印象があります。たぶん本来マーダーミステリーのように勝敗を競わないロールプレイゲームとして作られた遊びが、ローカルなコミュニティの中でのローカルルールを皆が内面化してしまった結果、あたかも論理的に勝敗を競えるゲームであるかのように誤解されてるんじゃないですかね?

僕の考えでは、人狼というゲームで論理的に意味のある部分は一つもないです。
辛うじて認知的な意味があるのが投票パートですが、議論パートは完全に無意味です。無意味というのは「判明する情報が少ない」という意味ではなく、「何を喋っても誰も何も喋っていないのと同じ」という意味です。よって人狼の議論パートで用いられる一定の推論規則も実は全く論理的なものではないんですけど、皆がそれを定石として内面化しているために機能しているように見えているだけです。
「実質的には空虚だけど皆が内面化することで機能しているルール」というのは、例えば「道路は左車線を走る」という交通ルールが該当します。本当は車が走るのは右車線でも左車線でも別にどっちでもいいんですけど、とりあえずどちらかには統一しておかないと事故が起こります。よって、「左車線を走る」というルール自体が本質的に事故回避に寄与しているわけではないのですが、皆が全く同じルールを内面化していることによってのみ事故が避けられるわけです。
人狼もそれと同じです。狼が占い師を騙ろうが市民を騙ろうが狼をCOしようが本当は全くどうでもいいんですけど、とりあえず「まずは市民と言っておくのが定石、占い師騙りという上級戦略がある、狼COは荒らし」とか適当に決まっているルールを皆が共有して内面化しているため、何となくパッと見では議論らしきものの見せかけが成立しているんですね。

 

222.自分はLWさんに触発されて平成仮面ライダーを555までイッキ見した者ですが、LWさんは剣以降の平成ライダーの視聴は続けられていますか?自分はもういいかなって気がしてきました。

その気持ち、かなりわかります。
仮面ライダーって毎週漫然と見ることを想定したコンテンツで、後になってハイペースで追いかけることを想定していないので、イッキ見は厳しいところがあります。これは秘密ですが、実は禁断の1.5倍速視聴とかも使いながら見ました。
剣以降も見るのがいつになるかわかりません。とりあえずディケイドまで見たいと思ってはいるものの、ディケイドまでって50話×10=500話ありますからね。銀河英雄伝説も目じゃない物量です。

ネットカルチャーだと仮面ライダーって全作品がオタクの一般教養みたいになっている節もありますが、アレって「クウガ~555まで見たオタク(僕や投稿者)」や「剣~電王まで見たオタク」や「キバ~オーズまで見たオタク」みたいな層が世代別に一定数ずついるだけなんでしょうね。ネットではそいつらのコメントがまとめて可視化されるため、「仮面ライダーを全作品見ているオタク」がたくさんいるかのような幻影が浮かび上がっているというのが恐らく真相です。

 

223.https://wolf.fandom.com/ja/wiki/LW

上に書いた通り、僕が人狼をやると早々にリア狂認定されて誰も真面目に話を聞いてくれなくなるので市民でも狼でもあまり違いはないです。

 

224.完全に興味本位なんですけどボーボボみたいな滅茶苦茶で筋が通ってないような作品でも記事って書こうと思えば書けますか?

全然書けると思います(僕はそんなにボーボボに関心がないので多分書きませんが)。
特に詳しくないですが、「不条理もの」っていう作品ジャンル自体普通にありますしね。それにボーボボは巷で言われているほど破綻した作品でもないと思います。読者がキャラの設定とか目的をちゃんと認識できる程度にはプロットがありますし、難解で知られるギャグパートも一定のパターンがあるような気はします。

 

225.読書をしている際に、その本を読む意味が薄いと感じた時(本のレベルが低いと感じたり、あるいは難しすぎて理解できないと感じた時)、その本を最後まで読みますか?それとも途中で辞めますか?

基本的には最後まで読みます。

まず「本のレベルが低いケース」は恐らく「そもそも著者のレベルが低い」か「(著者のレベルは高いが)内容で想定している読者層のレベルが低い」の2パターンだと思います。
前者の「著者のレベルが低い」ケースなら途中で読むのを辞めてもいいですが、著者のレベルは読み始める前に本を選ぶ段階で経歴等からチェックしておくべきなので、基本的には起こらないです。万が一、経歴から推測される著者のレベルと文章から受ける著者のレベルが異なっている場合は僕は経歴の方を信用します(権威主義)。
問題なのは「内容で想定している読者層のレベルが低い」ケースですが、この場合でも最後まで読んだ方がいいと思います。本当に知っている内容ならば、労力も時間もかけずにすぐ読み終えられるはずだからです。「これは対象層のレベルが低いから読まなくていいな」という判断は慢心を生んで読むべきものも読まなくなりがちなので、「簡単な本はどうせ簡単に読めるので読んでおく」というスタンスの方がいいです。

次に「難しすぎて理解できないケース」にも色々ありますが、基本的には「頑張って読めばわかる場合は頑張って読むし、頑張って読んでもわからない場合は諦める」という方針ではあります。ただ、「頑張って読めばわかるかどうか」は頑張って読むまでわからないので、とりあえず頑張って読みます。
それでわかれば万々歳、わからなくても大抵は三周くらいすれば「意味はよくわからんが重要な単語はわかる」とか「論理展開はよくわからんが前提と結論はわかる」くらいの状態にはなるはずです。そうやって何となく部分的にわかっていたことが後々繋がったりするので、やっぱり可能な限り頑張って読んでおいた方がいいです。
とはいえ、あまりにも難しすぎてテレビの砂嵐を見ているようだとか、これ以上は苦痛すぎて読みたくないみたいなときは諦めます。お金をもらって読んでいるわけではないので、そこが趣味の限界です。

 

226.読んだ本の記録を取ろうと心掛けているのですが、読書に没頭することと記録することとの両立が難しいです。LWさんはどのようにコンテンツのインプレッションを残しているのでしょうか。

僕にとってはその二つは相反するものではなくて並立するものです。
没頭するためには記録が必要だし、記録を元にして没頭するみたいな感じです。それは一般書籍でもフィクションでもあまり変わらないです。

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これは鬼滅の刃を読むときに取っていたメモの一部ですが、別に研究とか記録のためではなく、普通に娯楽として楽しむためのメモです。
僕は細かい設定とか描写はメモしておかないと忘れます。意外と重要だった設定を忘れたまま読み進めてしまうと「こいつ誰だっけ? 目的は何だっけ?」みたいになって没頭できなくなってしまいますし、また戻って説明を探して再収集するのも面倒です。メモしているおかげで「あーこいつ珠世の横にいた変なやつか」みたいにきちんと思い出して没頭できるようになります。
よってメモしている内容は微妙に忘れてしまいそうな伏線とか、あとでどういう扱いになるのか覚えておきたい部分的なテーマとかです。逆に「炭治郎の目的はネズコを人間に戻すこと」とかあまりにも基本的な設定は別にメモしなくていいと思います。それはメモしなくても忘れないので。

21/1/10 2020年11月消費コンテンツ

2020年11月消費コンテンツ

11月は言語哲学大全の攻略が主だった。

今更ながら、毎月書いているこの消費コンテンツ記事でアニメやゲームや学術書をまとめて記載していることについて、「勉強や息抜きのような異種のアクティビティをとりあえずごった煮にして記載している」と解釈されることは俺の実感に沿ってはいない。
俺にとってはどれも同種の娯楽なのでアクティビティとしてはっきり分かれているわけではなく、消費しているときの気の持ちようもほぼ違わない。

メディア別リスト

映画(7本)

Re:ゼロから始める異世界生活 Memory Snow
Re:ゼロから始める異世界生活 氷結の絆
魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st
魔法少女リリカルなのは The MOVIE 2nd A's
魔法少女リリカルなのは Reflection
魔法少女リリカルなのは Detonation
ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

書籍(5冊)

実践GAN 敵対的生成ネットワークによる深層学習
物語の構造分析
言語哲学大全Ⅰ
言語哲学大全Ⅱ
言語哲学大全Ⅲ

アニメ(12話)

魔法少女リリカルなのは Vivid(全12話)

漫画(10巻)

ハッピーピープル(全10巻)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

ハッピーピープル(1~2巻)

消費して良かったコンテンツ

言語哲学大全Ⅲ
言語哲学大全Ⅰ
言語哲学大全Ⅱ
実践GAN 敵対的生成ネットワークによる深層学習
ハッピーピープル(3~10巻)

消費して損はなかったコンテンツ

物語の構造分析
魔法少女リリカルなのは Reflection
魔法少女リリカルなのは Detonation
魔法少女リリカルなのは The MOVIE 2nd A's
魔法少女リリカルなのは Vivid

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st
ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

Re:ゼロから始める異世界生活 Memory Snow
Re:ゼロから始める異世界生活 氷結の絆

ピックアップ

ハッピーピープル

遠い昔、2chに入り浸っていた頃に評判を見かけてずっと読もうと思っていた短編集。
買うほどではないし漫画喫茶で読めばいいやと思っていたのだが、最近は漫画喫茶の閉店ラッシュが凄まじい。以前よく使っていたネットカフェコミック横断検索→でサジェストされる漫画喫茶が悉く死滅しており、やむを得ずAmazonで全巻購入する羽目になった。電子サービス普及とコロナ蔓延のダブルパンチにより、レンタル屋や漫画喫茶の寿命が一気に短くなりつつある。

1・2巻は期待通り素晴らしい内容だった。人間の言行不一致をここまで綺麗に描いている漫画を他に知らない。特に『ムズムズ』『仲よしこよし』『ごめんネ』『ハッピーハイスクールベースボール』あたりは人生に残る名作。
人間は最初から引き裂かれていて意思決定は常に破綻している。安定した人間関係も人間主体も何一つなく、親愛には殺意が、善行には偽善が、秩序には衝動が付きまとわずにはいられない。やってはいけないとわかっていることをやってしまう、行為に悪気があるのかないのか自分にも他人にもわからない、親しければ親しいほど殺したくなる、思うことと喋ることがどうしても一致しない。それは何か特別なトラウマを持つ例外者に限った話ではなく、皆そうなのだ。
そういうままさらなさをありきたりな「人間の闇」としてのみ描くのではなく、ポジティブにもネガティブにも発現する様子を執拗に描いているのが特に良かった。言行不一致は必ずしも悪いことばかりではない。『ごめんネ』のラストシーンでは殺したいほど憎まなければならないはずの相手の肩を叩いて喜んだりもしてしまう。

ただ、3巻あたりからはネタが尽きたのかシンプルにしょうもない出涸らし話が増え始める。特に当時流行っていた押しかけヒロインコメディの露悪的なパロディである「恋ちゃんシリーズ」の出来は、その文脈を除いてしまえば絶望的だ。
もっとも、この漫画は元々そんなに高級なものではない。底の浅いスプラッターホラーやキャッチーな時事ネタもごっちゃにして描くピンキリタイプの短編集ではある。基本的にはB級漫画で、稀にキラリと光る作品があるという方が実情には近い。

一番がっかりしたのが、当初は釋英勝の人並外れた慧眼で描かれていた人間の二面性が素朴にありふれた意味での「結局人間が一番怖い」的な話に落ち着いていってしまったことだ。初期にあったように愛憎の両面にかかるような葛藤がほとんど無くなり、ひたすら胸糞悪い話が続くようになってくる。それはそれでぼちぼち面白いが、よくある話だ。

 

言語哲学大全

言語哲学大全1 論理と言語

言語哲学大全1 論理と言語

  • 作者:飯田 隆
  • 発売日: 1987/10/20
  • メディア: 単行本
 
言語哲学大全2 意味と様相(上)

言語哲学大全2 意味と様相(上)

  • 作者:飯田 隆
  • 発売日: 1989/10/30
  • メディア: 単行本
 
言語哲学大全 3 意味と様相 (下)

言語哲学大全 3 意味と様相 (下)

  • 作者:飯田 隆
  • 発売日: 1995/12/01
  • メディア: 単行本
 

元はと言えば、藤川直也『名前に何の意味があるのか 固有名の哲学』のブックガイドで固有名と直接指示に関連してⅢ巻がオススメされていた書籍。
Ⅲ巻だけ読むのも気持ち悪いので全部読むことにしたのだが、Ⅰ巻から読んだのは正解だった。Ⅲ巻だけ読めるようには書かれていないように思われるので、率直に言って藤川氏の勧め方には若干の問題があるような気がしないでもない。

大全を名乗るだけあって、どこかで一度は名前を聞いたことがあるような言語哲学系の哲学者の話がザーッと攫える教科書的な本だった。
飯田隆自身は「哲学史を追おうというモチベーションはない」みたいなことをどこかで言っていたような気がするのだが、各巻ごとに時系列で論点が切り分けられた上でそれぞれの関係を明らかにしながら解説が進んでいく。関係を明示してくれると各論ではなく運動として理解しやすいのが嬉しいところだ。

それぞれの巻で扱われている内容をアバウトにまとめると、以下のような感じ。

・Ⅰ巻(論理と言語):量化論理をベースにしたラッセルとフレーゲによる記述理論
・Ⅱ巻(意味と様相(上)):ウィトゲンシュタインの誤読による論理実証主義の勃興からクワインによる解体まで
・Ⅲ巻(意味と様相(下)):クリプキとルイスによる事象様相の解釈に伴う純粋指示表現と分析的形而上学

最終Ⅳ巻では主にデイヴィドソン自然言語の意味論を扱っているらしいのだが、いつか暇なときに読めばいいかなと思って止まっている。とりわけフレーゲを筆頭に自然言語を軽視する風潮に対しては日常言語学派等からの批判の声がデカいということは幾度となく触れられてはいるのだが、俺も自然言語にはそこまで関心がない(理系だから?)。
俺の関心が最も高かったのはⅢ巻にあたる様相論理についてであり、Ⅰ・Ⅱ巻にあるそれまでの経緯は踏み台として理解したかったというモチベーションであると言わざるを得ない。A級はかつて分析哲学を学んだときにウィトゲンシュタインあたりから大陸系のネチャネチャした哲学に興味が移っていったみたいなことを言っていたような気がするが、俺は意図的に誤読した論理実証主義の方が魅力的に感じるくらいだ。
ただ、クワインが規約主義の必然性観に対して行った批判にしろ、そのクワインが立てたホーリズムに対する批判にしろ、結局のところ形而上学的なコミットを避けようとする論理はいずれ論証不能な地点に辿り着かざるを得ないという、全く当たり前のことを言っているように思われるのだが、俺の読み方が浅いのだろうか?

本丸のⅢ巻で扱われている様相論理については、様相命題論理と様相量化論理をはっきり分けた上で様相(特に必然性)を巡る文脈の中では後者の事象様相こそがクリティカルであることを指摘していたのはかなり勉強になった。文中にも書かれていた通り、確かに今まで読んできた入門書は概ね様相命題論理止まりで、様相量化論理について掘り下げたものはあまりなかった。
ざっくり言って、様相を事物ごとに付随するものであると考える場合、事物それ自体が今あるような状態で無かったこと、今ある状態でなくてもその事物を特定できることが含意されるため、現にあるような状態の記述を超えてその事物を示すような概念すなわち直接指示が必要になるのだ……と、俺は理解した。

 

物語の構造分析

saize-lw.hatenablog.com

ポップ批評でわりと適当に使われがちな「作者の死」というワードとロラン・バルトの立場(特にプロップらとの相違点)について、まあまあ理解できたのは有益だった。

 

実践GAN 敵対的生成ネットワークによる深層学習

サイゼミ機械学習回周りで読んだ。

saize-lw.hatenablog.com

前に俺が適当に調べた感じでは、今のところ生成タスクをこなすニューラルネットやGANについて専門に扱っている日本語書籍はどちらも翻訳だがこれとオライリーの『生成 Deep Learning』くらいしかないようだ(他にもあったらすまん)。俺は『生成 Deep Learning』よりは『実践GAN』の方がわかりやすいように思ったが、たぶん誤差の範囲だろう。

生成 Deep Learning ―絵を描き、物語や音楽を作り、ゲームをプレイする

生成 Deep Learning ―絵を描き、物語や音楽を作り、ゲームをプレイする

  • 作者:David Foster
  • 発売日: 2020/10/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

情報技術業界は基本的に論文ドリブンであり、アンテナが高い研究者と技術者は元論文を直接読みに行けばいいだけなので、わざわざ日本語に翻訳してまで技術書として出版されるフェーズは俺のようなそれほどモチベーションが高くない門外漢にまで行き渡る段階という印象がある。

標準的なGANの理解はニューラルネットさえわかっていれば全く難しくない。CNNのようにニューラルネットの層自体に手を加えるというよりは、ニューラルネットをモジュールとして組み合わせる思想だからだ。
よって、GANの解説では基本的な構成よりは実践向けの説明に比重があることが多い。具体的には、実際にはGANのチューニングが困難であることを対策するための実装上のテクニックやブレイクスルーについてだ。
が、俺はエンジニアではないし自分でコードを書いて試すこともないのでそこは割と何でもいい。ニューラルネットは理念と実践がはっきり分かれた分野であり、とりわけ後者はヒューリスティックな知見で稼働しがちだが、それを気にするのは技術者だけでいい。

また、GANと必ず並行して出てくる話題で、書籍を読んでも最後までイマイチわからなかったのが変分オートエンコーダ(VAE)とCycleGANの二つだった。この辺はネットで調べて半分くらいわかってきたような気がするが、あまり自信がない。
VAEについては、「潜在空間を確率分布で表現する」ということが何を意味しているかがよくわからなかった(確率分布のパラメタを取るだけであれば、結局それは潜在空間をパラメタの次元数で構成しているのと同じことでは?)。ただ調べてコードとかを読んだ感じでは、潜在空間から具体的な値を出力する段階で「サンプリングが挟まる」というのが肝っぽかった。学習時に誤差関数を導出する過程でもサンプリングを行って乱数要素を噛ませるということか?
CycleGANについてもだいたいわかったような気がする。CycleGANの解説では「領域(domain)」という概念が大した説明もなく出てきてビックリしていたのだが、要するにある一つの生成系が生成しそうなものの集合を領域と呼んでいるくらいの認識で良いのだろうか。例えば「ピカソのデータで学習した生成系が生成しそうなもの」が領域P、ダヴィンチのバージョンが領域Dだったとして、PからDへの写像を取るというだけの話か。というかサイクル一貫性損失を最初に考えた人が賢すぎて震える。

 

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

TSUTAYA歌舞伎町が遂に閉店するということで、記念に何か借りておこうと思って適当に借りたやつ。このTSUTAYAには大学時代からたびたびお世話になっており、一時期はプレミアム会員の借り放題にも入っていた。とはいえ、TSUTAYAサイドの不手際で勝手に解約されてから再契約するのが面倒で放置していたのは閉店の遠因かもしれない。

日本オタク界隈では斎藤環が紹介したことで妙に知名度のあるヘンリー・ダーガーではあるが、このドキュメンタリーでも何となく知っていることをインタビューとかで延々語られるだけで終わってしまった。
ダーガーを語るという営みが割と不毛な感触がするのは、まあ単純に肝心の『非現実の王国で』が極々一部しか翻訳どころか編纂もされていないからだろう。見てもいないアニメの作者について語るオタクみたいな歯切れの悪さをどうしても感じてしまうのだが、それはダーガーとその作品のことをも映画館で1500円を払って鑑賞するようなごく普通の商業作品だと思おうとする資本主義的消費態度の方に問題があるのかもしれない。

今でも「ダーガーみたいに死後評価されたい」と言っているオタクはワナビ界隈には一定数いるようであり、あまりの浅ましさにびっくりするが、その戯言の自己矛盾ぶりは若干頭に残らないこともない。
本当の奇跡はダーガーの存在というよりはダーガーが発見されたことであり、発見されなかったダーガーがどれだけいるのかはまさしく観測不可能であるが故に予想も付かない。当時のように紙媒体であれば物理的な痕跡が残ったものを、一秒で掃いて捨てられる情報メディアで創作することが標準となった現代においてはその奇跡の発生確率は塵ほどもない。自分だけのSSDにテラバイト単位のオリジナル小説と挿絵を描き溜めている現代のダーガーが何人いるのか、一人もいないのか。

どうでもいいが、「女性にペニスが描かれているのはダーガーが童貞すぎて女性にはペニスが付いていないことを知らなかったのではないか」とかいうクッソ適当な罵倒を事あるごとに受けているのがかわいそうだと思った。そんなことあるか?

 

魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st/2nd

なのはシリーズはStrikerSまで見ていたが、そろそろアニメ作品くらいは全部見てしまおうと思って見た。
1stと2ndは既にテレビ放送版を見ていたものと同じ内容なので改めて思うところは特にないが(関心が無さすぎてテレビ放送版の切り貼りなのか新規リメイクなのかもよくわかっていない)、俺はA's信者なので、なのははA'sだけのコンテンツというかA'sのために生まれてA'sの残響を追っているコンテンツという印象はある。

 

魔法少女リリカルなのは Reflection/魔法少女リリカルなのは Detonation

ぼちぼち面白かった。StrikerSの流れを放棄してA'sの系譜に戻っているのが嬉しい。アミタお姉ちゃんが好きです。

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ただ、良くも悪くもA'sそのものであって、先鋭化はしているが発展は特にしていないという感じ。
もともと無印からA'sにかけては愛と寛容の母性的なモードが物語を駆動していたのに対して、StrikerSでは規範や賞罰という父性的なモードが登場したのだが、結局後者は全然上手く扱えなかったし何だったんですかみたいな話は以前にも書いた。

saize-lw.hatenablog.com

高町なのはのフィロソフィー「話せばわかる」はどんな悪事も交渉と事情次第では不問に帰すことを含意しているのだが、なのはシリーズは美少女コンテンツであるためにその対象は美少女に限られていることは言うまでもない。とはいえ、高町なのはダブルスタンダードの容姿差別主義者になることを回避するため、「美少女無罪」は登場人物の思想というよりはプロットや設定に押し付けられている。
つまり美少女は絶対に悪役にしないし、ならない。容姿が良い限りはやむを得ない事情と黒幕が用意されている。実際、黒幕はキリエ→イリス(&ディアーチェたち)→フィルまで遡っていき、フィルからはもう遡らないのは案の定どころではない。美少女はどれだけ敵対していようと更なる黒幕に罪を押し付けてなし崩し的に味方になっていくが、最終的に敵として登場するおっさんについてはそれ以上省みられることもなく、単に廃棄処分されていく。フィルは美少女ではなくおっさんであるが故に悪である……というよりは、悪であるが故に美少女ではなくおっさんなのだろう。

元はと言えば、無印ではプレシアまで辿り着いた瞬間に救済は停止したし、A'sでも騒動の元凶は闇の書を改悪した誰かに押し付けられた。A'sは何となく美少女であるところのリインフォースと和解してめでたしめでたしみたいな雰囲気になっているが、設定上は更なる黒幕がいたはずだ。そういう真の悪であるところの(恐らくは)おっさんにまでは和解を踏み込まない偽善的な構成がどこまでも貫徹されている。

ただ、最後の最後でなのはが「自分のことを好きではない(他人を愛せても自分を愛せない病的な気質がある)」みたいなことを突然言い始めてビックリした。愛の輪の中心に位置するなのはが自分を台風の目として除外していたこと、なのはは自分のことを調整弁としてしか見ていないこと、なのは自身は偽善に対して自覚的で自分までも信じ込んで巻き込むことが出来なかったという話ならかなり面白いと思う。
このなのはの歪んだ自己認識はいずれどこかで掘り下げてほしいものだが、なんだかなのはシリーズ自体がそろそろ歴史的な遺物として埋却されていきそうな現状からして望みはあまり濃くない。

 

魔法少女リリカルなのは Vivid

見た目的にA'sの系譜かと思っていたら、意外にもA'sとStrikerSを折衷したような正しい後継作品だった。

次元規模で世界の危機を巡る戦いが展開していた過去シリーズとは対照的に、Vividの話はとにかくスケールが小さい。戦いは数メートル四方のリング内に収まっており、闘争はスポーツルールの中に囲い込まれた世界でしか発生しない。
一見すると、なのはたち先人の尽力によってA's系が夢見た愛に満ちた世界が訪れたようだが、その背景にはスポーツのルールとマナーという強力な規範が完成していることは見逃せない。最初から法に囲い込まれていてそこから逸脱しない限りにおいてあらゆる対話と交渉が可能になるような世界、父の中に囲い込まれた母というディストピアワールドがあるだけだ。リングに囲われた殴り合いは秩序に監視された模擬戦に過ぎない。
かつて高町なのはが語っていた「話せばわかる」が法の無い暴力が吹き荒れる世界の中で何とかして愛を立て直そうとする試みだったとすれば、ヴィヴィオがリングの中で語るそれは規範で補強された安全圏から発せられる手温いメッセージに過ぎない。これに感化されたメインヒロインであるアインハルトは路上のバーリトゥードからリング上のスポーツへ、すなわち法なきアナーキーな世界を脱して出来合いの法が支配するスポーツの世界を謳歌するように変化していった。
こうした法の発動というモチーフはStrikerSからの流入だろう。StrikerSでは組織の規律として正面から扱おうとした結果全く魅力のないものになってしまったが、Vividでは内面化されたスポーツルールという形態を取ることでその上に愛と交渉というA's的なモチーフを打ち立てることに成功し、その意味でVividは正しくA'sとStrikerSの後継である。

ただ、明らかに2クール予定で準備されていた内容が途中で打ち切られていたので、本来であれば2クール目ではA'sのように世界の危機を巡る戦いがスタートして、スポーツという枠組みの外での剥き出しの愛による闘争が描かれる予定だったのかもしれない。
それは打ち切りになってしまった今はもうわからない、というのは嘘でメディアミックス作品なのでコミックスを読めばわかるのだが、そこまでコミットするやる気がないのでいずれ覚えていたら目を通したい。

実際、スポーツの枠組みを出ようという気配は何度か伏線としてチラついている。
例えば1話でなのはがヴィヴィオに「大人化の力は試合でしか使っちゃいけないよ」みたいな釘をわざわざ刺していたやつは普通に考えてあとで破るフラグだろう(約束を破るときに回想で出てくるシーン)。また、コロナが試合の途中で自分自身を身体操作の対象にする奥義を完成させかけたこともあり、そこで試合を度外視した人生規模の戦いが発生しそうな気配があった。
というか、明らかに2クール目で扱うために用意されていたストーリーラインはアインハルトが抱えている先祖の記憶だろう。アインハルトが遺伝によって受け継いでいる先祖の闘争はルールを度外視した世界の話だ。スポーツのルールに従うようになったアインハルトが記憶との折り合いをどう付けるのかという話が、2クール目には想定されていたとみた。

 

Re:ゼロから始める異世界生活 Memory Snow/氷結の絆

別に見なくていいタイプのFDだった。
リゼロはつくづくスバルの死に戻りという主題だけで回っており、それ以外は全然面白くないということを再確認してしまった。例えばキャラ萌えだとか、エミリアの被差別というようなサブストーリーをそれほど評価しているわけではない。
我々と美的規範が異なる世界で虐げられている奴隷美少女に優しくするみたいなよくあるやつ、性欲を発露するだけで感謝されるのが気持ちいいというのはよくわかるが、そういう自慰行為はDLsiteとかfanzaでやろう。