LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/7/31 お題箱回

・お題箱68

154.KSUの発足経緯を知りたい

僕はあまり良く知らないですが、「京産大に入り浸っていていた京大のYPがチームCSに出て~」みたいな話を聞いたことがあるような気がします。

 

155.メモの写真をみました、字きれいですね
美文字とかそういう系のことではなく、読みやすそうだなって思いました

ありがとうございます。
僕はメモしたりブログに書いたりしたことは割とすぐ忘れるので、後で忘れた状態から見ても思い出せるように読み返して意味がわかるように書くことを心がけています。というより、忘れてしまって頭の容量を空けるために記録している節があります。メモは脳の外付けストレージみたいな感じですね。

 

156.もっとブログ書いて❤️

最近は週一くらいを目指してはいますが、まあ気分次第です。

 

157.すめうじの前身作品読みたいから俺にだけこっそり教えて

ちょっと前に鬱記事で謎にバズったブログに載ってます。あのブログ自体、人に読ませる気で書いていなかったし読みづらいし恥ずかしいので貼りませんが、僕のツイートを漁れば掘り出せると思います(まあ、DMで聞かれれば教えます)。

白花ちゃんの前身が無職じゃなくて神社で巫女さんしてたり、黒華ちゃんの前身が蚊じゃなくてぼうふら持ちだったり、紫ちゃんの前身が歌って踊る地下アイドルやってたりしますが、「美少女と虫」というテーマは完全に同じです。美人か美少女しかいないし全員から虫が湧いてきます。

  • 私:主人公。巫女の美人。蛆が湧く。
  • 妹:不良美少女。ボウフラが湧く。
  • みやすん:妹の友達その一。地下アイドルの美少女。蛞蝓が湧く。
  • キリ:妹の友達その二。正義感が強い美少女。蜘蛛が湧く。
  • ぴよちゃん:妹の友達その三。運動神経が高い美少女。百足が湧く。
  • みやすん(大):みやすんの従姉。殺処分場職員の美人。蝸牛が湧く。
  • シスター:キリスト教徒の美人。ゴキブリが湧く。

この前身のことは自分ではほとんど忘れていたつもりだったし、すめうじを書くときに読み返したりもしていないんですが、今見ると粘体論とか地下アイドルとか主観世界のモチーフは既に出てきています。実はすめうじの段階になってサルトルとかメイド論とか環世界で説明したのは全部後付けたこじつけで、そういう話を知らなかったはずの時代でもほとんど同じような内容を書いているんですね。
特に「わたてんが好きだからわたてんみたいな話を書いた」っていうのは僕自身も真実だと思い込んでいたんですが、前身を見る限りは完全に嘘で、僕はわたてんを見る前から成人女性が不特定多数の年下の女の子にモテるのが好きだったらしいです。

 

158.ブログのほうをいつも楽しく読ませてもらい、陰ながら応援させていただいております。
時に、LWさんは(いま流行りの?)サウナには行かれますでしょうか?
現在は新作のラノベも書かれているとの事なので、そちらの発表を楽しみにお待ちしております。

ありがとうございます。
次のラノベはもう7万字くらいは書いたんですが、すめうじが18万字だったのでまだまだ先は長そうです。

スーパー銭湯が好きでよく行くのですが、初めてサウナにちゃんと入ったのはこの前ゴッシーと一緒に池袋の「かるまる」に行ったときです。サウナ上級者のゴッシーの動きを真似してサウナに10分くらい入ったあと水風呂に入って「ととのう」やつをやったんですが、普通に脳震盪みたいになって吐きそうになりました。体感的にはヤバい風邪を引いたときの眩暈の最強版で、椅子に座ったまま立てなくなるし「早く過ぎ去ってくれ」と祈ってました。
まあでもこれからもスーパー銭湯に行けばサウナには入ると思うし、色々調節して適度な「ととのい」を見つけたいと思っています。徐々に強度を上げていくよりは一度最強版を体験してからの方が探索が楽なので(cf.二分探索法)、ゴッシーには感謝しています。

 

159.時間的束縛を嫌うLWさんが実家暮らしなの不思議です(家族と関わる以上は必ず何らかの拘束が発生するはずなので)

まあ~そこは家庭によって千差万別なところですね。
時間的・金銭的・利便的な拘束がある一方で、逆に時間的・金銭的・利便的な利益が発生することもあるわけです。

 

160.みそ飲みの他2人が誰だったのか気になる

161.みそ飲みでどんな話したか知りたい

こういうお題箱が来たりフォロワーから「会ってたの熱かった」とか言われたりするあたり、我々もVtuberコラボみたいな感じになってませんか? LWとみそが飯に行くやつ、桐生ココと天音かなたが飯に行くやつと同じなのでは。

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www.youtube.com

他2人はお互いに自分の知り合いを一人ずつ連れて行きました。麻雀で言うところのお引きの者、Fateで言うところのサーヴァント、嘘喰いプロトポロス編で言うところの立会人です。初対面でサシを避けたのはLW的には発言する人間と話題の引き出しを増やして会話の質を上げるためですが、みそ氏は「相手が危険人物でいきなり刺されるかもしれないから安全のため」って言ってました。

正解するカド』がクソだった話とかMNISTのラベル誤りの話とか色々話したんですが、そういうことを事細かに書くと本当に桐生ココと飯を食ったあとの雑談配信でそのネタを消化する天音かなたになってしまう、ので、そこまで話してないけど個人的に思うところが強かったことを書くと、東大のオタク事情です。

みそ氏みたいな尖った才能を持つオタクって東大でも普通に極めてレアです。
これは恐らくそれなりに角が立つ話なのですがもう卒業したので書いてしまうと、僕は中退する前に尖ったオタクの知り合いが欲しいなーと思って東大のオタク系サークルを回っていたことがあります。しかしどこに行っても「推しが尊い」と言いながらパワーワード大喜利をしているタイプのサークルしかなく、極端になると「アニメは頭を空にして楽しむのが正義」「小難しい話をするやつは馬鹿」みたいな反知性主義的な主張すら耳にするほどでした。東大のオタクですら自分を賢く見せようとする知的な俗物根性が存在しない、良く言えば現状肯定的な即時即物消費のモードが主流です。逆にOBなんかに会うと彼らは軒並み高学歴オタクがにわか批評を通っていた世代なんですが、そこから世代が一つ下って、予言されていた通りにオタクが本格的に動物化した世代が訪れています。
過去にそういう悲しい経験があったので、求めていた同大の強キャラの出現にテンションが上がってかなり積極的にコンタクトを取ったという経緯があります。しかしまあ、みそ氏も含めた強キャラ皆が声を揃えて言うのは「深いやつはだいたい潜んでる、徒党を組まない」ということで、そうなんだよなーと思いながらよくわからん銘柄の梅酒ソーダ割を飲んだ次第です。

20/7/24 2020年6月消費コンテンツ

6月消費コンテンツ

6月の消費コンテンツは映画と書籍に寄っていて、代わりにアニメ・特撮は全く見なかった。理由は特になく、6月はそういう気分だったというだけだ。

メディア別リスト

映画(27本)

X-MEN: ファースト・ジェネレーション
X-MEN: フューチャー&パスト
X-MEN: アポカリプス
ウルヴァリン: X-MEN ZERO
ウルヴァリン: SAMURAI
ローガン
デッドプール
デッドプール2
仮面ライダーアギトスペシャル 新たなる変身
劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4
リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い
アヴァロン
キル・ビル
キル・ビル2
スターリンの葬送狂騒曲
聖なる鹿殺し
ルパン三世 カリオストロの城
キック・アス
キック・アス/ジャスティス・フォーエバー
フォレスト・ガンプ
人狼
動物農場
呪怨
リング
エルム街の悪夢
ローマの休日
ウォッチメン

書籍(5冊)

現代思想2019年6月号 特集=加速主義
これがニーチェ
ディヴィッド・ルイスの哲学
動物からの倫理学入門
カント『純粋理性批判』入門

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

【映画】ウォッチメン

消費して良かったコンテンツ

【映画】劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4
【書籍】これがニーチェ
【書籍】ディヴィッド・ルイスの哲学
【書籍】カント『純粋理性批判』入門
【書籍】動物からの倫理学入門

消費して損はなかったコンテンツ

【映画】聖なる鹿殺し
【書籍】現代思想2019年6月号 特集=加速主義
【映画】X-MEN: フューチャー&パスト
【映画】X-MEN: アポカリプス
【映画】デッドプール2
【映画】ローガン
【映画】X-MEN: ファースト・ジェネレーション

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

【映画】アヴァロン
【映画】フォレスト・ガンプ
【映画】デッドプール
【映画】動物農場
【映画】ルパン三世 カリオストロの城
【映画】キック・アス
【映画】キック・アス/ジャスティス・フォーエバー
【映画】ウルヴァリン: X-MEN ZERO
【映画】ウルヴァリン: SAMURAI
【映画】人狼
【映画】ローマの休日

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

【映画】キル・ビル
【映画】キル・ビル2
【映画】呪怨
【映画】リング
【映画】エルム街の悪夢
【映画】リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い
【映画】仮面ライダーアギトスペシャル 新たなる変身
【映画】スターリンの葬送狂騒曲

ピックアップ

【映画】ウォッチメン

saize-lw.hatenablog.com

かなり面白かった。MCU見る前にウォッチメン見た方がいいぜ。

 

【映画】劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4

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特別面白くはないが、アギトで一番重要な作品はこれで間違いない。クウガ龍騎の間を思想的に橋渡しする役割を担っており、仮面ライダーが五代から浅倉に変質するまでの経緯を補完している。

クライマックスで氷川がG4に対して「もういいだろ……もういいだろ!」と絶叫するシーンがこの映画の全てである。
G4が持つ、「戦えば戦うほど傷付いていく、それでも皆のために戦う」という自己犠牲のモチーフが仮面ライダークウガを継いでいるのは明らかだ。五代雄介も皆のために笑顔で戦っていながら実は自分の精神を激しく消耗しており、仮面の下ではいつも泣いていたことが明かされる第48話がクウガで最も重要な回だ(あの泣き顔のためだけに47話分を見たと言っても過言ではない)。そのスタンスを共有するG4が明確に否定されたことで、五代的なヒーローはアギトにおいて挫折した。

ここに来て、アギトにおいて津上翔一が示した「無限の自己肯定」にクウガの対となる立ち位置を与えられるようになる。というのは、津上翔一は記憶喪失でありながら「窓から見た空が綺麗」というだけでそれを気にしないことができる人間だ。現状と自分を無限に肯定する津上翔一=アギトは、自己犠牲と他者へのコミットに支えられた五代雄介=クウガ=G4のオルタナティブであることがPROJECT G4で提示される。

氷川がG4を葬送することによって五代雄介は否定され、津上翔一が立ち上がる。しかし、そのために払った代償は大きかった。
一見すると何の問題もない「無限に自己肯定できるヒーロー」が、自己犠牲の精神を葬ることで生まれた過程を忘れてはならない。そのリスクが顕在化した瞬間、津上は浅倉へと変質する。すなわち、「自分のためだけに戦うヒーロー」の誕生だ。龍騎における浅倉はアギトにおいて既に懐胎していた。
以上、自己犠牲を踏み台にして生まれた自己肯定が暴走して傍若無人の殺人犯に至るという、五代→津上→浅倉のライン取りを示すことでアギトにシリーズ上での立ち位置を与える重要な作品である。

 

【書籍】動物からの倫理学入門・【書籍】これがニーチェ

saize-lw.hatenablog.com

5月あたりから倫理学関連の本を齧っていたが、ひとまずの結論が付いたのでこれで終わる。

 

【書籍】ディヴィッド・ルイスの哲学

デイヴィッド・ルイスの哲学 ―なぜ世界は複数存在するのか―

デイヴィッド・ルイスの哲学 ―なぜ世界は複数存在するのか―

  • 作者:野上志学
  • 発売日: 2020/01/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

そんなにディープな本ではないが、とりあえず誰にでも勧めやすい可能世界論の入門書としてなかなか良かった。
今まで日本語で簡単に読める入門書としては三浦俊彦の『可能世界の哲学』を勧めてきたが、そちらは可能世界論のメリットについて「様相に関する質的で曖昧な議論を、世界に関する量的で明瞭な議論に変換できる」という点に主眼を置いていた。一方、こちらは「可能世界による反事実命題の分析が因果・フィクション・知識などの幅広い応用に利用できる」という点に力を入れて説明している。
いずれも理論を導入する直感的なメリットをはっきり提示しているところがわかりやすく、どちらを読んでもよいと思う(合理的な分析哲学者のサガとして、もともとデイヴィッド・ルイス自身も提唱する理論の用途や有用性を入念に説明する傾向がある)。

更にこの本が優れている点としては、循環論法を避けた明確な定義を明解に与えていることがある。というのは、可能世界論の誤解されやすい弱点の一つとして、「可能性があるから可能世界があるのか、可能世界があるから可能性があるのか?(もしその二つが一致するとしたら様相実在論は空虚な循環に過ぎないのでは?)」という説得力の無さが挙げられる。一応、ルイスは可能性についての曖昧な妄想とは独立に可能世界に関する定量的な議論を与えるような理論をいくつも考えており、例えば世界組み換え原理はその一つだ。そうした理路をしっかり説明することで、妙な神秘化を被らないように配慮されているところが好感度が高い。

補足309:もっとも、ソール・A・クリプキなどは「可能世界は発見するものではなく約定するものだ」と正反対の見解を言いきっており、可能世界界隈(?)のコンセンサスというわけでもないのは注意しておいた方がよいと思う。

 

【書籍】カント『純粋理性批判』入門

カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

  • 作者:黒崎 政男
  • 発売日: 2000/09/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

しっかりした教授が書いた古典の解説書にしては珍しく、非常にわかりやすく地に足の付いた文体で『純粋理性批判』の超越論周りのロジックを解説してくれるありがたい一冊。たぶん事前知識無しでも問題なく読めて、(そんなに選択肢を知っているわけではないが)カントの入門書を聞かれたらこれを挙げると思うようなポジション。

 

【映画】X-MEN: ファースト・ジェネレーション・【映画】X-MEN: フューチャー&パスト・【映画】X-MEN: アポカリプス

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X-MENは『ファースト・ジェネレーション』まで同じような内容を繰り返し続けており、「プロフェッサーXとマグニートーの断絶」や「社会での人間とミュータントの対立構造」は見飽きたしそろそろ飽きてきたな……と思ったところで『フューチャー&パスト』がブッ込まれてビックリした。
『フューチャー&パスト』では『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』をスキップしていきなり『アベンジャーズ/エンドゲーム』の冒頭が始まる。謎の崩壊した世界には今やミュータントしかおらず、そこで展開するのはミュータントを狩る殺戮マシーンとの戦いだ。人間が消滅したことで利害主体同士の政治的な闘争は雲散霧消し、シンプルに生存を巡る動物レベルの闘争が代わりに現れてくる。
タイムワープとか色々あった末、人類とミュータントの関係がバチバチの対立関係からお行儀の良いリベラル的寛容を基調にした協調関係に書き換わり、ここでシリーズの路線そのものが転換する。そこまで相容れない断絶を代わり映えもなく延々と描いてきたというのに、何故か一気に多文化主義の夢が花開く(これはMCUと同じ末路だ)。

この和解ではミスティークが最大のキーになっている。『フューチャー&パスト』に限ったことでもなく、X-MENシリーズで最も重要なキャラクターは恐らくミスティークだ(「実はこの人はミスティークでした」オチの多用で脚本作りを相当楽にしていることもその功績に含めてもいい)。
ミスティークは「本来の醜い外見」=「迫害されるミュータントとしての姿」と、「変身能力による擬装」=「社会に溶け込める人間としての姿」を自由に使い分けられる。それ故に逆説的に彼女はミュータントである本来の自分の姿にこだわってミュータントとしての自己実現を望んでおり、そんな彼女はマグニートー側に付かざるを得ない経緯は『ファースト・ジェネレーション』のラストで描かれた。ミスティークこそ、人類とミュータントの対立をその身体の両義性で表す、利害闘争というテーマの象徴だったのだ。ミスティークが『フューチャー&パスト』では遂に人類を救う行動を選択したことで、闘争路線から協調路線へというX-MENシリーズ最大の転換が発生する。

その後の『アポカリプス』で起きた決定的な変化として、マグニートーが遂にX-MENの味方として世界を防衛したことが挙げられる。今までマグニートーはずっと「一時的には協力するが、肝心なところで裏切るヴィラン」だった。それが完全に逆転し、『アポカリプス』では「一時的には裏切るが、肝心なところで協力するヒーロー」となった。これが『フューチャー&パスト』で発生した協調路線への転換に起因することは言うまでもない。『アポカリプス』で最も重要なキャラは明らかにマグニートー(の変化)であり、それに比べれば本来のラスボスとして措定されたエジプト神(?)か何かは添え物のようなものだ(彼はタイムワープ前のマグニートーに近い思想を持っており、『アポカリプス』は旧マグニートーvs新マグニートーの戦いだったとも言える)。
また、マグニートーの変心のための理由付けとして、『フューチャー&パスト』で書き換わった世界では「本来マグニートーは家族愛に溢れた人間だった」という設定が後付けされる。愛する家族を殺されてヴィランと化したものの、息子であるシルバークィックの説得によって家族愛を復活させられるらしい。『フューチャー&パスト』以前では世界レベルで大義を持つスーパーヴィランだったのが、『フューチャー&パスト』以降では家族レベルの利害にまでに縮退していることが伺える。政治的な闘争がリベラルの理想郷に書き換わり、各々が大義ではなく個人的な領域で活動するようになるという経緯はMCUでの顛末とほぼ一致する(以前詳しく書いた)。

saize-lw.hatenablog.com

ただ、MCUにも同じことが言えるのだが、こうした変化は物語内部からの流れとして正当化されるべき理由は特に発見できない。身も蓋もないことを言えば、「時流的にこうするのがウケる」という商業的意図だけが透けて見えている。ミスティークにせよマグニートーにせよ、トップダウンの要請で協調路線の行動を取り始めただけで、元々バチバチに闘争していた彼らがキャラクターとして協調すべきだったとは全く思われない。そのあたりがMARVELの限界のような感じはある(DCEUはまだもう少し違う回答を提出できそうな気配がある)。

ところで、X-MENシリーズは能力バトルとしての完成度がかなり高く、特殊能力の描写はヒーロー映画でも随一だった。能力の使用シーンがめちゃめちゃカッコよく、非常に作画の良いアニメを見ているような感覚がある(それって褒め言葉?)。特に素晴らしいのがテレポーター能力者全般とクイックシルバークロックアップで、シリーズを追うごとに能力描写が洗練されていくのをかなり楽しみにしていた。

 

【映画】デッドプール2・【映画】ローガン

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日本ではデッドプール知名度ばかりが独り歩きしている感じがあるが、本来はX-MENシリーズの外伝作品なのでX-MENを全部見てから見るのが望ましい(ということを言うためだけに俺はX-MENシリーズを全部見たわけだ)。

実際、X-MENを追っていないとわからないのは、『デッドプール2』と『ローガン』が対になっていることだ。『デッドプール2』の冒頭でデッドプール自身が軽く言及しているが、この二作品は時期も話もほぼ同じである。元々、『ローガン』の主人公であるウルヴァリンは高速再生能力、『デッドプール2』の主人公であるデッドプールは不死身能力というよく似た能力を持つ上に、二人とも人体実験で戦闘能力を得た過去がある。

補足310:X-MENを見ていない人はウルヴァリンの能力はあの3本爪だと思っているかもしれないが、あれは後天的に仕込まれた武器である。あの爪を出すたびに皮膚を切り裂く怪我をしているのだが、高速再生能力で治しているだけだ。あの爪を出すたびに結構痛い思いをしているらしいというのを初めて知って俺はかなりウケた。

デッドプール2』『ローガン』ではそれぞれミュータントの子供が登場し、再生系の能力を失ったことで死に直面した主人公たちが子供に何を伝えて何を遺すかというほとんど同じテーマが扱われる。二人とも軍人上がりなので人を何人も殺してきており、闘争で彩られた人生に対するケリの付け方が問われているのも同じだ。本当に話が同じなのだ。ウルヴァリンデッドプールの回答も一見すると似通ってはいる。二人とも子供の自由を尊重し、なるべく子供自身が幸福に生きる道を選んでほしいという基本線は一致する。
しかし、ウルヴァリンが「やつらの思い通りになるな」的なことを言って(言ったっけ? 言ったような気がする)闘争の継続と自由の奪取を伝えて死亡した一方で、デッドプールはとりあえず子供の殺人を止めて生き残る。意外にもデッドプールの方がパターナリズムに寄っており、子供のうちは大人に任せておきなよという社会性のある回答を示しているのだ。
とはいえ、デッドプールが好ましいのはそれは決して道徳的な理由によるものではないし、絶対のルールというわけでもないことである。気に食わないやつは殺すし、結局は子供の前で相手を二回も殺害している。殺さないことで責任を回避するという選択肢はあるべきだが、それはそれとして自らの責任において殺すという選択もあり、デッドプール自身がそれを自ら示している。現実にどんな選択肢を取るかとは別の問題として、取り得る選択肢は多い方がいいに決まっている。

 

【映画】アヴァロン・【映画】人狼

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どっちもあまり面白くない方の押井守だった。
天使のたまご』のように最低限の台詞しか喋らないタイプの作品と、逆に『御先祖様万々歳』のように何でも饒舌に演説しまくるタイプの作品があるが、俺は圧倒的に後者の方が好きだ。

『アヴァロン』の方は「オンラインゲーム世界でのデスゲーム」というSAOの原型とも目される(誰に?)キャッチーで先進的な内容ではある。押井守らしい誠実さを感じるのは、オンラインゲーム内で明らかに現実ステージ(Class: Real)を作っておきながら「実はこっちの方が現実でした」オチを安直にやらないことだ。「ここが現実か否か」は本質的に決定不能問題なので、「真相」としての結論を出したところで大した意味が無い。知り得ないことは語り得ない。だからこそ、Class: Realですらアヴァロンへの扉が開くのだろう。
人狼』の方はケルベロス・サーガで延々とやっているような「軍事と戦争の形骸化」みたいな話の焼き直しで、またそれかいとかなり辟易しながら見ていた。

『アヴァロン』や『人狼』(ケルベロス・サーガ)も全く面白くないわけではないのだが、そこで扱われたモチーフをエンタメ的にも批評的にももっと高度に完成させたバージョンの作品が他に存在しているので、微妙なバージョンをわざわざ見る意義が薄いというのが正直なところだ。こういう「完成度は低いがテーマは直球なバージョン」みたいな作品は『東京無国籍少女』のように今でも割とちょくちょく出てきて、決して全く面白くないわけではないが、見ていてキツくないと言えば嘘になる。
「テーマは入り組んでいるが完成度が高いバージョン」に当たる作品を具体的に挙げておけば、「現実と空想の狭間」を昇華しきったのが『トーキング・ヘッド』だし、「軍事と戦争の形骸化」を昇華しきったのが『パトレイバー2』であることは間違いない。そもそもこれらのモチーフは分離したものでもなく、複数の作品に通底して繋がったり離れたりするアメーバのようなモチーフの一部として押井守作品に潜んでいる。少し音を外した変奏としては、「家族制度という物語の形骸化」という形に落とし込めば『御先祖様万々歳』になるわけだ。

 

【映画】キック・アス・【映画】キック・アス/ジャスティス・フォーエバー

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深いようで別に全然深くない邪道ヒーロー映画。

「ヒーローに憧れる一般人がヒーローになろうとして頑張る話」というのは割とありふれているような気もするが、ナードでヒーローオタクの主人公が甘い理想と厳しい現実の狭間で揺れ動くプロットはそれなりによく作られて入る。
ギャングに挑んだら普通に刺されてガチめの病院送りになったり、軍人上がりの本業ヒーローに遭遇して萎縮してしまったり。特に主人公もヒロインもヴィランも軒並み「父を失った子供」であり、人生に指針を与える父権的なものが消えたあと、それぞれに理想を求めたり現実の厳しさに直面したりするという基本設定には舌を四分の一くらいは巻いてもいい。
とはいえ、『1』でも『2』でも最終的には「色々うまくいかないこともあるけどヒーロー活動ってやっぱりいいよね」的なところに着地してしまうのがあまりにも浅い。浅すぎる。理想と現実の間で葛藤があったならそれを止揚してほしいし、どちらかに落ち着く話で終わっても得るものがない。似た内容の『スーパー!』に比べると、何段階か格は落ちる。

ここまで書いた内容とは全く関係のないフェチズムとして、『キック・アス』では十歳かそこらの子役の女児が物凄い身体のキレで動き回って人を殺しまくるアクションシーンが見られるのは非常にポイントが高い。実は上に挙げた『ローガン』にも似たようなシーンがあり、「人を殺しまくる女児」が見たい人は『キック・アス』か『ローガン』を見る価値がある。

 

【映画】フォレスト・ガンプ

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「人生はチョコレートの箱、開けてみるまで分からない」という台詞があまりにも有名だが、それは『フォレスト・ガンプ』の本質を捉え損なっているように感じる。俺的には、もっと重要な台詞は「本当は皆それぞれ運命を持ってるのか、それとも皆風に吹かれて漂っているだけなのか、でも僕は両方だと思う……多分両方が同時に起きるんだと思う」の方だ(長い上に釈然としないので流行らないのはわかる)。
冗長な方の台詞で語られているのは、人生のイベントには偶然的なものと必然的なものがあるということだ。「偶然」と「必然」は哲学用語で言うところの様相だが、それぞれ「起きる確率が非常に低いこと」「起きる確率が非常に高いこと」と思ってもらえればいい。これらは数学的には同時に起こることは有り得ないが、人生においては同時に起きうるのだという指摘が上の台詞に込められている。例えばガンプと上官の再会は偶然的なものだと思えば「数奇なめぐり合わせ」だが、必然的なものだと思えば「運命の結びつき」である。こうした感情は同時に発生しうるし、その時々に応じて都合の良い解釈をしておけばよいのだ(様相は実証できないのだから)。

このようにガンプは偶然性と必然性を同時に肯定しているのだが、「人生はチョコレートの箱、開けてみるまで分からない」の方は偶然的な側面についてしか語っていないことに不満が残る(もし必然的なら開けなくてもわかる)。同じ不満は日本語版でのみ付加された「一期一会」などというナンセンスなサブタイトルにも向けられる。「一期一会」では偶然性しか表現されないし、作品内でも同じ人と何度も再会しているため別に一期一会感はそんなにない。むしろ一期一会では終わらない、上司や恋人との再会こそがガンプの人生を劇的にしていると思うのだが……

20/7/23 ウォッチメンの感想 ヒーローはもういない

ウォッチメン

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非常に面白かった。
内容が優れているし、キャラクターや話が純粋に好き。もう10年以上前の映画だが、現代アメリカヒーロー映画の総決算と言っていい。正直なところ、単発であることも含めて完成度はMCUより高いと思う。

ウォッチメン」というタイトルが複数形(MEN)であることから推測されるように、ウォッチメンはヒーロー一人ではなくヒーロー六人のグループだ(その割には女性が一人おり、デッドプールなら「ウォッチピープル」と訂正するだろう)。
単発ヒーロー映画としてはやや珍しい群像劇形式が採用されており、彼らが戦う相手は「ヒーローが正義を失って凋落している(古き良きアメリカの終焉)」という現実である。この舞台設定はもはやお決まりのものだが、そこに至る経緯が序盤の回想で早々と消化されるのが好感度が高い。そういう現状があることは前提とした上でそれにどう向き合うかというテーマが展開していく。
六人のウォッチメンが持つ思想はそれぞれ明瞭に分節されており、キャラクターというよりは思想の擬人化という印象すら受ける。それぞれがそれぞれにどうしようもない現実をどうにかする方法を模索していくのだが、しかし結論から言えば、結局のところ「どうしようもない」。ヒーローたちがヒーローの不可能性を追認していくのが『ウォッチメン』なのだ。

六人のヒーローのうち、他の五人と明確に一線を画しているのがDr.マンハッタンだ。
Dr.マンハッタンは量子を操る能力を持ち、物理的には無敵、新物質の創造やテレポートも容易い。既存のヒーローが出来ることは大抵何でも出来る完全上位互換モデルである。
しかし能力が既に完成してしまっているが故に、彼は人間への興味を薄めていく。中盤のクライマックスでは「現実とは偶然の連鎖であり、偶然の連鎖とは奇跡である」という様相的な気付きによって人間に力を貸すようになるが、しかし、その気付きは人間のレベルではない。既に形而上学のレベルに達してしまっている。彼が奇跡について語るのは個々の事物に対する事象様相ではなく、世界の在り方に対する言表様相である。つまり、個々の人間を見ていない。超越者となったヒーローは超越的な世界での超越的な価値観しか持てないのだ。実際、彼自身も「人間はわからない」と語り、最終的には地球を放棄して宇宙の彼方へと去っていく。
Dr.マンハッタンの末路で描かれたのは「スーパーパワー」はもう役に立たないということだ。単純な能力や性能の高さは社会の行き詰まりを全く解決しないし、むしろ地に足が付かずに離脱を招く。名前にドクターと付いているのがなかなか上手く、応用可能性がわからない水準にまで専門化されて神学に近付いていく理論物理学が意識されているのかもしれない。

超越性故に人間界から離脱していくDr.マンハッタンとは異なり、あくまでも人間界に居座ろうとするのがコメディアン、オジマンディアス、ロールシャッハの三人である。彼らが醜悪な世界を何とか生き延びようとして選択する戦略はそれぞれ「適応」「偽装」「固執」だ。
コメディアンは世界の改善を完全に諦めており、自らもそのパロディとなることを選んだ。レイプや虐殺を行う「悪人」と化してしまったのは醜い現実に適応すれば彼自身が醜い形態にならざるをえないからだ。コメディアンは現状追認以上でも以下でもなく、それ故にオジマンディアスの過激な思想には腰が引けざるをえない。現実の映し鏡であるコメディアンが殺されることにより、それを巡る闘争がスタートすることを示す冒頭シーンは素晴らしい。
コメディアンを殺害したオジマンディアスも「世界の改善はもはや不可能である」という前提は共有している。それに適応しようとしたコメディアンとは異なり、オジマンディアスは改善ではなく更なる「改悪」ならばできることに気付いたに過ぎない。Dr.マンハッタンですら法にはなれない世界で可能な営みはジョークしかないが、逆に言えばジョークであればギリギリ有効なのだ(しかし有効というのはどういう意味だ?)。
思想の根底に完全な諦観を持っているコメディアンとオジマンディアスと異なり、その無意味さを理解していながらも世界の改善に固執するのがロールシャッハだ。彼は寄る辺なき世界の変容を認識しているからこそ、犯罪まがいの方法へと手段を変えて自らの信念を実行し続ける。終わった世界においてはロールシャッハは端的に狂人であり、刑務所に叩きこまれてヴィランのような存在にならざるを得ない。

コメディアン・オジマンディアス・ロールシャッハの三人とは異なり、そもそも最初から現実を追認せずに古き良き世界に憧れ続けるのがナイトオウルとシルクスペクターだ。
この二人が古風な正義に固執しているのはロールシャッハと同じだが、世界の変容自体を認めていない点で決定的に異なっている。何の意味も無い自警団活動を再開して喜べてしまう、ナイーブなヒーローに憧れる子供たちがこの二人だ。ナイトオウルが時代遅れで見かけ倒しのガジェットを愛しているのは滑稽ですらある。
終わっている現実に気付けない彼ら二人はある意味では無敵で幸福である。闘争の末にDr.マンハッタン・コメディアン・オジマンディアス・ロールシャッハの四人が何らかの形で社会から離脱してしまった一方で、ナイトオウルとシルクスペクターはそれなりに幸せな人生を送っているようではある。
ただし、その代償は途方もなく大きい。とりわけ、戦いを終えたラストシーンでシルクスペクターが自分の人生を意味づけて自己満足してしまっていることがそれを象徴する。二人は醜悪な世界とは最初から戦っていなかったし、せいぜい自分の人生を自己実現していたに過ぎない。ナイトオウルとシルクスペクターの活動は「自分探し」でしかなかったことが明らかになる。

こうして、六人のヒーローはそれぞれがそれぞれの結論を出した。
Dr.マンハッタンは世界への興味を失った。コメディアンは醜悪な現実に適応した。オジマンディアスはジョークで偽装した。ロールシャッハは狂った正義に殉職した。ナイトオウルはナイーブな夢に埋没した。シルクスペクターは自己実現に撤退した。

要するに、ヒーローはもういない。

20/7/19 倫理は永井均しか勝たない

倫理学を齧った感想

153.倫理学について語って欲しい(出来ればLWさんのおすすめ本も教えて欲しい)

最近読んだ倫理学の本はこのあたりです。

プレップ倫理学 (プレップシリーズ)

プレップ倫理学 (プレップシリーズ)

  • 作者:柘植 尚則
  • 発売日: 2010/08/01
  • メディア: 単行本
 
メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

 
動物からの倫理学入門

動物からの倫理学入門

 

大阪経済大学准教授のHP(→)がブックガイドとして非常に参考になり、それを見ながら初心者向けの書籍を選んで読みました。
いずれも平易でわかりやすい良書ですが、『プレップ倫理学』はあまりにも教科書的で文脈に欠けるため、単独で読んで満足するよりは最初に読んでおいて後で適宜参照するのが良い気がします。『メタ倫理学入門』は学史上の経緯よりも論理ベースで主張を整理する構成が見事で、様々な論点を明晰に切り分けて理解するのに役立ちます。『動物からの倫理学入門』は各理論について対応する身近な問題を動物倫理から引っ張ってきて検討してくれるので、理論の使いどころを正しく理解できます。

これらで学んだ全体的な印象としては、各分野が扱う対象、何を争うのかという論点、主張を縮約した主義などの各要素が非常によく整理されていて、分析哲学的な雰囲気は好みでした(メタ倫理学の場合はムーアの影響が大きそうですが、倫理学がそういう学問であるというよりは読んだ本がそういう意味で優れていただけかもしれません)。
道徳や倫理に関する話題はニュースや創作でもいくらでも見られるので、道具立てとして簡単にでも触れておく価値は高いです。僕は『ウォッチメン』を見ながら「功利主義者のオジマンディアスと義務論者のロールシャッハが対立しているな……」と考えていました。

倫理学は主に3つの分野に分かれますが、僕が一番興味があるのはメタ倫理学でした。「メタ」という名前から何となく察せられるように、メタ倫理学では「そもそも道徳は存在するのか」「そもそも道徳判断とは何なのか」というような、そもそも論的な話題を扱います。それらの問いに対する僕の答えは読む前からはっきりしていて、「道徳は実在しないし、道徳判断とはせいぜい話し手の気持ちの表明に過ぎない」です。人を殺してはいけない理由など何一つないし、「人を殺してはいけない」という判断は「人を殺さないでほしい」という気持ちの表明と等価です。

補足308:僕が「人を殺してもよい」というのは、「生きていたらこれから100人殺すことが確実な殺人犯なら殺していい」とか「どう見ても意志を持っていない知的障碍者なら殺してもいい」というような「やむを得ない場合では殺す選択肢も正当化されうる」という意味ではありません(倫理学では境界例として頻出するようですが)。世界で最も「善良」な人間でも理由なく殺していいし、十数年間手塩にかけて育ててきた大切な娘でも、心から尊敬し感謝もしている最愛の親でも倫理的には理由なく殺していいという意味です。一般に「人を殺してもよいか」という疑問は「どういう条件ならば人を殺してもよいか」という全く異なる疑問に変質する傾向があり、それによって「別に無条件で殺していい」という発想が隠蔽されることに対しては欺瞞の気配を感じざるを得ません。また、動物倫理に対する立場もはっきりしており、「無条件で人を殺しても良いのだから、況や動物をや」です。

メタ倫理学の言葉を使えば、僕の立場は非実在論かつ情動主義です(道徳は実在しないし、せいぜい情動を表す程度のものである)。そして僕と対立するのが「道徳は椅子や机のように実際に存在する」と考える実在論者や、「道徳は事実の認知である」と考える認知主義者です。
僕は僕の立場に対して非常に強固な確信を持っているので、これらの対立する主義の間での論争がどう展開するのかを非常に楽しみにしていました。実に陳腐なテーゼですが、本を読んで新たな知見を得ることの魅力が今まで自明だと思っていたことを疑えるようになることだという見解にはかなりの程度同意します。

ところが、「実在論者vs非実在論者」や「認知主義者vs非認知主義者」の論争はそもそも成り立っているようには思えませんでした。
例えば、僕のような立場に寄せられるお決まりの反論は「それでは現に我々が持っている道徳の重みを説明できない」「現に行われている道徳の実践を説明できない」というものです。シニカルな倫理的見解に対してはすぐにこの手の反論がシュバってきますが、はっきり言って意味不明です。そういう考え方をするコミュニティがローカルにあることは否定しませんが、その存在を前提にするならそれはそのコミュニティローカルの社会学でしょう。その路線であれば本来すべき議論は「何故その直観が存在するのか」であるはずで、契約論や進化生物学がその範疇であるようですが、それらは実在論者の妄想と矛盾なく両立しうるため、やはり「実在論者vs非実在論者」という対立自体が不毛と言わざるを得ません。
元々、僕が反証として挙げられることを期待していたのは、理論の内部破綻や自己矛盾を指摘するようなやり方です。それを鮮やかにやってみせたのが例えば厚生経済学におけるアローの不可能性定理であり、ざっくり言えば「君たちはこれこれこういうことを主張しているようだが、それを緻密に検討するとこういう暗黙の前提と矛盾してしまう」と指摘することでそれまでナイーブに信じられていた立場を破壊しました。ところが、倫理学実在論者に全く共有していない前提を出された上で「これが説明できない」と言われても「だから何?」です。哲学において直観分析という手法が有効であったとして、直観を全く共有していない人間から見れば、それは恣意的に説明に合う「直観」を抽出してくるイデオロギー操作でしかありません。

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僕の考えでは、こうした歪みが生まれてくる根本的な原因は、倫理が個人的なものか社会的なものかという軸の設定が(僕が読んだ限りでは)あまりきちんと行われていないことです。
具体的に言えば、倫理という概念が本当に出発点にすべき疑問は例えば「世界に僕一人しかいないときに倫理は生まれるか?」だと思います。もし今日からこの世界に人間が僕一人しかいなくなったとして(お望みなら犬猫などの任意の生物も消去して構いません)、その世界で倫理を考えることは端的に無意味であるとは思いませんか。もしそれに同意してもらえるならば、倫理とは他者の存在を認めることによって初めて駆動する、本質的に社会的な営みであるはずです。そしてそれを認めるならば、非実在論に対して「倫理に対して強い実在の確信を持っている人もいる」という他者の直観への説明責任が生まれることは理解できます。ただし、それならそうと最初にそう明言した上で、哲学の看板を下げて社会学の看板を上げてください。
僕が言っているのは、倫理において検討される内容には「個人の生き方」や「社会の規範」といったレベルがあるということではなく、そもそも倫理という概念が成立するための超越論的な条件として他者の存在が必須であるということです。僕の考えでは、評判の悪いムーアの直観主義を評価できる点もそのあたりにあります。ムーアが批判されるのは、倫理の規範になると彼が主張した直観がせいぜいその個人の中でしか有効でない曖昧な概念だからです。しかし、まさにその弱点によって、倫理を個人の牙城に囲い込む=単独で成立させる倫理があり得るという可能性が提示されるように思います。

結局のところ、僕にとって倫理という話題は「私と私以外」という問題系に収斂せざるをえないわけですが、そうなってくるとやはりTwitterの底からドロンと現れてくるのが永井均です。

引用元で僕が貼った文章は『これがニーチェだ』からの引用です。

なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」――だれも公共の場で口にしないとはいえ、これがほんとうの答えである。

これがファイナルアンサーです。また、もし倫理学というゲームが「私と他者の等価性」という地点から始まるとすれば(そしてそれを前提にしないとき参加可能性自体が断たれるならば)、そのゲーム設定は『<私>のメタフィジックス』の範疇でもあるでしょう。

これがニーチェだ (講談社現代新書)

これがニーチェだ (講談社現代新書)

 
<私>のメタフィジックス

<私>のメタフィジックス

  • 作者:永井 均
  • 発売日: 1986/09/01
  • メディア: 単行本
 

以上のような経緯で、僕がお勧めする倫理学の書籍は『これがニーチェだ』『<私>のメタフィジックス』です。ただ、その意義は倫理学のしょうもなさを味わってから初めてわかるので、とりあえず倫理学入門を齧ってから読む方がいいと思います。実際、僕は倫理学を齧ってから再読して改めてその重みを理解しました。

20/7/15 お題箱回

 ・お題箱67

148.原作遊戯王の最新映画について何か言及ってされてましたっけ。されてなかったのでしたら是非お話を聞きたいです。

『THE DARK SIDE OF DIMENSIONS』はかなり面白かったです。原作ラストの「決闘の儀」からの流れを綺麗に継いでいて、過去に呑まれた海馬を描く目の付け所は素晴らしいと思いました。
原作をよく読むと、実は海馬って決闘の儀には立ち会っていないんですよね。過去編を除けば彼が闇遊戯と最後にデュエルしたのはバトルシティ編準決勝です。決闘の儀で闇遊戯をきちんと葬送できた表遊戯とできなかった海馬の明暗がはっきり分かれてくるあたり、喪の儀式の重要性が身に沁みます。

元々、「死者蘇生で蘇る亡霊」は原作のキーモチーフの一つであり、ラー=闇マリクの死者蘇生使い回し戦術と、オシリス=闇遊戯が最後に発動した死者蘇生を通じて、古代エジプトを巡る問題の象徴として描かれていました。
それに対抗する立ち位置を与えられているのがオベリスク=海馬であり、それが最もはっきり示されたのがイシズ戦でのオベリスクリリースです。闇マリクや闇遊戯が神を墓地からフィールドに蘇らせる一方、海馬だけは神をフィールドから墓地に送ります。決闘の儀でようやく表遊戯が行った蘇生の拒絶を、海馬はイシズ戦の段階でやっていたと言ってもあながち間違いではありません。

しかし、過去に憑りつかれたオベリスク=海馬が「死者蘇生で蘇る亡霊」と化したのがエジプト遺跡での藍神vs海馬におけるオベリスク召喚シーンです。あのシーンって応援上映で「神だ!!」とか叫んで喜んでる場合じゃなくて、原作を踏まえるならば海馬が狂ったことがはっきり明示される狂気的なシーンです。
彼がエジプトの地面=死者の世界からオベリスクを呼び戻すのが象徴的な意味での死者蘇生であることは明らかです。しかもその際にリリースされるモンスターはブルーアイズ3体であり、オベリスクをリリースしてブルーアイズを召喚したイシズ戦の構図が完全に裏返り、ブルーアイズをリリースしてオベリスクを蘇らせる事態が描かれています。闇マリクがラーを、闇遊戯がオシリスを死者蘇生したように、劇場版では遂に海馬がオベリスクを死者蘇生してしまい、これによってエジプトの亡霊と化した海馬とエジプトの亡霊を葬送する表遊戯との対立が決定的なものになります。

とはいえ、海馬が偉いのは表遊戯に説得されずに最後まで狂っていることですね。未来のテクノロジーで過去に戻る、前向きに後ろ向きという、なんか弁証法っぽい雰囲気のエンディングが良かったです。

149.LWさんが自分の出身高校(あるいは中学)のことをどう思ってるのか詳しく聞きたい

日本で最も良い高校の一つだったことは確かですが、僕は学校という制度自体が嫌いなのでそこそこしんどかったです。キノコ嫌いの人は世界で一番美味しいキノコでもなお不味いみたいな感じです。思い入れ自体が薄いので語りたいことはあまりないです。
ただ、今でも強く思うことが一つだけあって、それは「当時の狂気はどこに行ってしまったのか」ということです。中高の頃は同級生に狂人が多くいたような気がするんですが、大学に入ったあたりで皆どんどんまともになってしまって、僕だけが取り残されたという強い疎外感があります。皆がまともになる方法をそれぞれ発見したのか、それとも最初から終わっていたのは僕だけだったのかということが、高校について思い出すたびに考えざるを得ない唯一のことです。

www.nicovideo.jp

これは僕が高校を回想するときのテーマソングです。

150.LWさんが東大で学んだものを語って欲しい

具体的な知識は色々ありますが、ほどほどに一般的なことを一つ言うなら「無知の知」だと思います。というか、僕に限らず学部卒レベルで学ぶべきことってだいたいそれに集約されると思いますが。
「知らないということを知る能力」、つまり「世の中には自分が知らないことがある」という認識をアクチュアルに持っていれば、不可解なことや理解できないことに出くわしたときにも一度立ち止まって冷静に俯瞰することができるはずです。その意味では「知らないことに検討を付ける能力」と言い換えてもよくて、「この分野はまだ詳しく知らないがだいたいこのあたりに知りたいことがある気がする」「俺は知らないがこの人は概ねこういうことを知っているんだろう」みたいな想像力だけが新たな知識へのアクセス可能性を担保できると言っても過言ではありません。

逆に無知の知を学べていない場合に悲惨なのは、自分が知らないことは端的に存在しないことだと考えてしまうことです。「世の中には自分が知らないことがある」ということをわかっていない手合いというのは、例えばTwitterでたまにいる「専門家でもないのに専門家をバカにする人」とかのことです。仮に専門家が一見するとバカみたいな意見を言っていたとして、その理由が「その専門家が本当にバカだから」である可能性は非常に低いです。大抵の場合、「自分の知識が足りないから専門家の言っていることが理解できなくて彼をバカだと誤認してしまっている(バカは自分の方)」が真相ですが、それに辿り着くにはまさに「世の中には自分が知らないことがある」という前提が必要不可欠です。

151.喧嘩商売と喧嘩家業っていう漫画読んでますか?絶対LWさんが好きな漫画だと思います。

『喧嘩稼業』は新巻が出るたびに購入している数少ない漫画の一つです。体調が躁寄りのとき部屋で煉獄打つ練習してるくらい好きです。一番好きなキャラは佐川睦夫、次が工藤です。
嘘喰い』『喧嘩稼業』みたいな暴力と知がシームレスに融合した漫画は本当に好きです。結局のところ、物理的な暴力も精神的な知力も等しく目的を達成するための道具立てに過ぎません。だから暴力と知力は対立関係ではなく、むしろ状況に応じて適切に選択してどちらも使いこなすようなものであるべきです(ニーチェが言うところの「力への意志」というやつです)。純粋なバトル漫画も純粋な頭脳漫画も嫌いではないですが、やっぱりどうしても「なんでここで騙さないんだ……?」「なんでここで殴らないんだ……?」っていう瞬間があります。騙す方が楽なときは騙せばいいし、殴る方が楽なときは殴ればいい。
とはいえ、それをエンタメとして統合するのって多分かなり大変なことだと思うので、高いレベルで実現している漫画はやっぱり凄いと思います。なんか他にも同系統の漫画あったら教えてください。

152.就活でブログの話をしたって本当ですか?

ブログの話というか、ブログに書くような話をしたことはあります。
一時期エンジニアのマッチングイベントみたいのに参加してたんですが、コードを書くことには興味がないし実績も無かったので「J・L・オースティンの言語行為論を用いてPepperの身体性を捉えるならプログラム上の真偽値的な論理体系を遂行性の論理体系として読み替えることができるはずで~」みたいな話をしてました。プレゼンの評価は高かったんですがどこも雇ってくれなくて、「君は働くのに向いていないのでパトロンを見つけてください」とか「君の行く末を非常に楽しみにしています」とか就活イベントとは思えない意味不明なコメントを大量に貰いました。

中でも一番意味不明だったのが某検索エンジン会社の人事が「君のことは絶対雇わないけど、とても面白いから是非本社に来てもらってお話ししたいです」って言ってきて、本当にその後本社ビルに行って就活と関係ない内容を2時間くらい話したことですね。マジで就活と一切関係ない話をして「非常に楽しかったです、それでは」とか言われて帰されました。「追加のカジュアル面談をした結果不合格だった」みたいなやつでもなくて、開幕で「君のことは雇わないつもりなので、これは就職とは関係のない雑談です」って念押しされましたからね。「本当に就職する意志があるなら真剣に面談するので別個に連絡をください」とも言っていましたが、アレは何だったんですかね?

書いてみると就活のヤバいエピソード割とありますね。今働いている会社だって履歴書の志望動機を空欄で提出しましたし(面接のときに「現状で御社を特に志望していないので志望動機は書いていません」と説明しました)、今思うとよく雇ったなと思います。

20/7/12 『プリコネ Re:Dive』の感想 結局、誰が何を忘れて誰に救われた?

 ・『プリコネ Re:Dive』の感想

147.プリコネアニメにおける主人公の扱い方について(あるいはプリコネアニメ全般でも)、何か感想 があればお聞きしたいです

プリコネR面白かったですが、これだけバチバチ萌えアニメで好きなキャラが特にいないのは結構珍しいです。強いて言えばエリコですが、ヤンデレなところはあまり好きではありません。

主人公(騎士くん)の根底に明らかな反マチズモがあるよねということはファーストインプレッションでも書きました。

saize-lw.hatenablog.com

記憶障害(≒知的障害)が騎士くんから男らしさを抜き取って、フェミニンな(という表現には問題がありますが……)萌えキャラたらしめているのが見事だということは既に書いた通りです。

補足307:内容や世界設定がよく似ていて何かと引き合いに出される『このすば』のカズマと騎士くんの比較は興味深いところです。一見するとカズマと騎士くんは性欲の持ち方に関して真逆のキャラクターですが、それでも彼らが共通しているのは「ハーレム状態であるにも関わらず恋愛関係から一定の距離を置いていること」です。仲間たちから男だと認識されていなさそうな騎士くんは言わずもがなですが、カズマの方は逆に女性ヒロインのことを男友達だと思っている節があります。カズマは騎士くんと違って少年らしい性欲をきちんと持っていてそれが友人であるはずの仲間たちに発動してしまうことに対して一定の葛藤があるのですが、いずれにせよそれは純粋な肉欲であって恋愛にかかる承認欲求や所有欲ではありません。カズマはダクネスでオナニーはするけどキスはしないという一線があります。欲望自体が不在である状態と、自覚された欲望を抑え込むべく奮闘している状態ってどっちが倫理的だと思いますか?

ただ、最終話では騎士くんが(部分的に?)記憶を取り戻し、「仲間は僕が守る」という非常に男らしい台詞を発するようになります。また、プリンセスナイトとしてバフをかけつつも、コッコロがバッファーに回って騎士くんがラスボスを斬るという形で最終戦が決着しました。

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僕はプリコネのユニークな点の一つは男性がバッファーに回ってヒロインが戦うという転倒的な構図だと感じていたので、正直なところ最終話のこの流れはあまり評価できません。
ただ、かといって騎士くんの記憶回復によってヒロインとの関係が男女関係として再定義されたのかというとそういうわけでもなく、むしろそれを避ける仕掛けが慎重に施されています。

まず終盤で初めて提示されるのは、騎士くんが「忘れてしまった」人間であるのに対し、ペコリーヌが「忘れられてしまった」人間であることです。「忘却」というキーモチーフに対して象徴的に加害者サイドにいるのが騎士くん、被害者サイドにいるのがペコリーヌという鏡写しの構図が伺えます。
既に述べた通り騎士くんが「思い出す」ことによって最終戦は決着するわけですが、それによって騎士くんとペコリーヌの間の加害-被害関係が解決するのかと言うと、そういうわけでもないんですよね。最終話を最も綺麗に収拾する教科書的な脚本は騎士くんがペコリーヌに「今まで忘れててごめん」的なことを言って、ペコリーヌが「思い出してくれて嬉しい」的なことを言うハッピーエンドだと思うのですが、そういう話ではない。
少なくとも設定上でそうならなかった理由は単純で、単に忘却にかかる問題はそれぞれ独立に発生しているからです。騎士くんが忘れていたのはペコリーヌではないし(彼が主に忘れていたのはアニメでは登場しなかったユイ)、ペコリーヌが忘れないでほしかったのは騎士くんではありません(彼女が忘れないでほしかったのは両親)。更に言えば騎士くんとペコリーヌは問題の解決方法も真逆です。それぞれが欠落を補完する方法は、騎士くんは過去を思い出すこと、ペコリーヌは未来を充実させることでした。
実際、騎士くんの記憶回復という非常に重要なはずのイベントは美食殿から隔離された空間で名前もよくわからないぽっと出のお姉さんと行われました。合流後も騎士くんが美食殿の仲間たちに何を思い出して何を伝えたのかはあまり描写されていませんし、視聴者にも判然としません。

象徴的には主人公とヒロインの記憶問題を対として提示しておきながら、回復過程を切断する捻れた構図は、僕の素朴な印象では、やっぱり非常に倫理的だなと思います。主人公とヒロインの、まあはっきり言えば、男と女の力関係が共犯的に補完し合うのではなく、そもそもそれらは独立だよねという切り分けを感じるからです。
そもそも伝統的なゼロ年代批評(笑)を引けば、エロゲー主人公の記憶が曖昧であることはエロゲーマーが複数のルートを辿ることと対応しています。エロゲーマーは色々な女性キャラクターと次々に疑似的な恋愛関係を結んでいくわけですが、その過程で各キャラと誠実に向き合っていると「さっきあのキャラと永遠の愛を誓ったのに、いま他のキャラに愛を囁いているのはどうなんだ」ということになってしまいます。だからこそ、ゲームをリスタートして別のルートを始めるたびにプレイヤーと主人公は記憶をリセットするわけです。
プリコネRはコンテンツの成り立ち上、そういう文脈での現実とゲームでの記憶フォーマットのリンクが明確に背景にあります。プリコネRの前身であるプリコネ(無印)は現実世界で実際にサービスが終了した=プレイヤーがヒロインたちのことを忘れてしまったという事実が、ゲーム内では騎士くんの記憶を失わせているわけですから。現実世界では「サービスを終わらせた消費者」と「サービスを終わらせられたキャラクターたち」の間に加害と被害の関係があって、それが設定上は「忘れてしまった騎士くん」と「忘れられてしまったヒロインたち」として変奏されている基本線があります。
では、「騎士くん=我々は彼女たちを思い出してあげることで彼女らに贖罪する」ということで一件落着かというと、それもそんなに好ましくありません。そもそも、思い出して「あげる」という表現はこちらにプライオリティがある前提を含意しています。思い出して「あげた」ところでまた忘れる権利がこちらにあるならばそれは問題の解決になっていませんし、加害者の贖罪は被害者に寛恕を強いることと裏表です。そういう贖罪-寛恕関係の寄る辺なさを踏まえると、忘れられてしまったペコリーヌが「騎士くんに思い出されること(贖罪を寛恕すること)」によってではなく、「自ら旅して仲間を得ること(贖罪も寛恕も忘れること)」で自主的に回復したのは非常に倫理的だなと思うわけです。

とはいえ、それなりに引っかかるのは最終話で騎士くんがペコリーヌを抱きしめなかった代わりに、コッコロがペコリーヌを抱きしめたことです。

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コッコロは「忘却」という問題からは一定の距離を取っています。少なくとも、コッコロは忘却の贖罪を寛恕するという立場ではありません。むしろ「都合の良い女の究極」として美食殿を円滑に回すことにより、そういった問題を緩和する緩衝材の役割がありました。具体的に言えば、騎士くんの忘却問題がそこまでシリアスな問題を招来せずに一貫してコメディとして処理できたのはコッコロの献身のおかげということです。
つまり、忘却問題が贖罪や寛恕というフェイズに至る前に、騎士くんとペコリーヌを救ったストッパー的な救済装置がコッコロです。これは見方を変えれば、独立されて扱われていたはずの騎士くんとペコリーヌの問題を統合し(てしまっ)たのがコッコロの「母性」であるとも言えます。
となれば、「母性」とは「寛恕」の強化版に過ぎないのだから、コッコロの存在によって贖罪-寛恕という対は温存されたのではないかという見方が最も穏当ではあるとは思います。結局、脱マチズモが母性のディストピアに回収されるというありきたりな構図を逃れられなかった?

とはいえ、その指摘はいつでもできるので、今はあえて「コッコロが寛恕側であるはずのペコリーヌをも救済した」という事実と、騎士くんの問題とペコリーヌの問題が慎重に切り分けられていたことに注目しておきたい気持ちがあります。つまりコッコロの母性は贖罪-寛恕の対を一つ上のレイヤーで止揚するものであり、それ故に騎士くんとペコリーヌを同じやり方で救えたのではないかということです。騎士くんを救ったことはたかだか特殊例の一つに過ぎず、もっと一般化可能で広範な能力が現代オタク文化的な母性の中にあるのではないかという方向で擁護を試みることはできるかもしれません。

まあ、僕はこの「バブみ文化」は全く好きではないのでそんなにコミットする意欲はないですが、この文化がまだもう少し続きそうなことと、後から振り返ってもコッコロというキャラクターが一つのメルクマールになりそうなことを考えれば、そうやって無理筋な擁護の可能性を残しておくのは無駄なことではないでしょう。

20/7/6 『ポストモダンの思想的根拠』 ポストモダニズムから資本主義リアリズムまでの間に何があった!?

ポストモダンの思想的根拠

かなり面白かった。
議論が明瞭で書き方も平易なので、美容院で縮毛矯正をかけている間に読み終わった。

補足306:天パ以外は知らないと思うが、縮毛矯正は1回3~4時間かかる上に安くて1万円は取られる。天パ税である。

タイトルがややミスリーディングだと思うのだが、この本で主に議論されている「ポストモダン」とはいわゆる「差異の戯れ」としてイメージされる二十世紀的なそれではない。代わりに二十一世紀に君臨しているのは「ポストモダンの第二段階」であり、こちらはもはや陳腐化した差異の戯れなど完全にコントロールして支配下に置いている。「差異」としてのポストモダンphase1は9.11を境にして終わり、「管理」としてのポストモダンphase2が始まったというのが主な論旨だ。

2005年に出た本だが、スラヴォイ・ジジェクの引用を通じて2009年のマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』への接続として読める点が素晴らしい。俺がこの本で解決した疑問は、とどのつまり「ポストモダニズムから資本主義リアリズムまでの間にいったい何があったのか?」である。差異が戯れるポストモダン状況というユートピアが訪れたかと思いきや、何故フィッシャーをして「資本主義の終わりより世界の終わりを想像する方が容易い」と言わしめる再帰的無能感が世界を覆っているのだろう。ネオリベラリズムヘゲモニーポストモダンの延長線上に捉えることにより、プレモダン-モダン-ポストモダンphase1-ポストモダンphase2という年表の上に資本主義リアリズムを位置付けることが可能になる。
その際にキーワードになるのは「自由管理社会」、すなわち「自由と管理の共犯関係」というモチーフだ。ポストモダニズムで称揚されたような差異をベースとした自由は既に厳重な管理体制の下に置かれている。逆に言えば、管理という柵の中で囲い込まれた範囲でのみ自由の謳歌が可能になっているのだ。

最大のポイントは、「自由管理社会」は思想警察があちらこちらに潜んでいるような全体主義的な「統制管理社会」とは全く違う、むしろ正反対の社会だということだ。
もともと、「統制管理社会」はフーコーが規律権力として指摘したものの発展形として理解できる。フーコーは主体化と服従化を同一視し(subjectの両義性)、閉鎖空間において規範を内面化することによる近代における主体という擬制の完成を指摘した。例えばオーウェルの『1984年』において描かれたのも矯正プログラムによって主体化と服従を同時に完成させる人間の姿であり、この意味でビッグ・ブラザーはパノプティコンカリカチュアでもある。

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しかし、現代において街角の監視カメラが持つ機能はビッグ・ブラザーのモニタリングとは全く異なっている。監視カメラは社会の構成員にとって、「生存の担保」というこれ以上ない有益な効果をもたらすからだ。監視カメラが無ければ街中に犯罪が横行し、ひったくりやレイプによって我々は自由を失うかもしれない。我々には党派的な意図を全く経由せずに自ら監視カメラを街中に設置するインセンティブがあるし、クレジットカードの利用や指紋認証にも全く同じことが言える。
こうして監視カメラの存在によって示される、管理によって担保される自由が「自由と管理の共犯関係」だ。この監視カメラを国際レベルにまで拡大したものが世界警察と化したアメリカだとすれば、世界的に自由管理社会が成立したのはテロの脅威がセキュリティの無限なる延長を正当化した2001年9月11日だったと言えよう。
なお、こうしたセキュリティレベルの権力の在り方は、再びフーコーを引けば「生権力」として彼が指摘したものと同一視しうる。モダンな規律権力の影響下では、本質的に抑圧的な統一によって成立している主体の中では差異の戯れなど生まれようもなかった。しかし、情報社会において規律権力が生権力へと変質する中で、権力の発動は人命に関わるレベルでセキュリティを担保するだけの夜警国家的なものにまで縮退した。ここにはポストモダン的な自由を謳歌する余地も生まれるかもしれないが、しかし、それはあくまでも監視カメラによって担保された柵の中の自由であることには留意しなければならない。

さて、このようなポストモダンにおける「自由と管理の共犯関係」というモチーフはネオリベラリズムの両義性にも現れてくる。ここからが本題だ。
ネオリベラリズムは一方では市場原理や自由競争を肯定して最小国家を理想とするリバタリアニズム的側面を持つ反面、国家による思想的な統制をかなりの程度肯定する保守的コミュニタリアニズムの側面も持つ。この二つは通常は対立すると考えられているが、実はそうではないのだ。先ほどの監視カメラの論法と同様にして、自由な競争を担保することを目的として、国家が秩序を整流するパターナリズムが肯定されうるからだ。こう言ってもいい、市場原理という「ゲーム」を楽しむためには、最低限の「ゲームルール」を整備する管理者が必要ではないか。こうしてリバタリアン的自由をコミュニタリアニズム的管理が担保する「自由の管理」という捻れがネオリベラリズムとして完成する。

以上のように、「自由管理社会における自由と管理の共犯関係」をベースにして、「ネオリベラリズムにおけるリバタリアニズムコミュニタリアニズムの共犯関係」も同じ囲い込みの構造として理解できるだろう。もちろん、囲い込まれるのはポストモダン的な差異の戯れである。世界を自由に繋いで差異の多様性を提供したはずの情報技術と自由主義はもはや完全に柵の中の夢となり、ポストモダニズムの夢が謳歌されるのはマトリックス装置の中だけでしかない。
最後に『資本主義リアリズム』に戻っておけば、こうした囲い込みのモチーフはフィッシャーが「ヴァンパイア城」と評した資本主義リアリズム下での左翼の末路でもある。資本主義に囲い込まれて去勢された左翼はその枠組みと戦う「政治左翼」であることを忘れ、せいぜい枠内でポリコレを云々するだけの「文化左翼」に過ぎない。
拵え物の差異と戯れたところでいったい何になるのだろう、ネオリベラリズムによるポストモダニズムの攻略は既に完了しているというのに……